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OffTime5月号 インタビュー 独立行政法人国立病院機構福岡東医療センター 院長 中根 博

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福岡東地域の基幹病院としての責務は
超高齢化社会ニーズへの確かな貢献

父君から続く九大第2内科の奔流
数多の恩師からのエールで
中根博院長は際立つ

 父君は九州大学医学部第2内科の先輩、進んだ医局は藤島正敏教授の第2内科、脳循環研究室で佐渡島省三講師の直接指導を受け、国立循環器医療センターから戻られた岡田靖先生の指導のもと聖マリア病院、九州医療センターで研鑚を積んだ。岡田先生は医師人生の恩師だと語る中根院長。
 福岡東医療センターの先々代の上野道雄院長には病院経営の道標を示していただくなどよき先輩にめぐまれ果報者だと頷き、相田みつをの 夢はでっかく根はふかく を金言として、福岡東医療センターの院長として、さらなる研鑚と勇気ある実践に励むと中根院長は改めて力強く語った。

断らない医療をモットーに、スタッフ一同粉骨砕身努力していくと厳しい眼で語る中根博院長

父君は九大第2内科医師
好きなことをさせてもらった少年時代

生まれたのは移転前の浜の町病院です。小笹団地に住んでいた幼少の頃 、父の中根和彦は九州大学医学部第2内科の勝木司馬之助教授に師事し、黒岩義五郎助教授が日本で最初の”神経内科 教室 “を起ち上げられた時に一緒にそこに移ったと聞いています。
私が小学生の頃は、まだ大らかな時代で、先生が通常の授業のかわりに、生徒を引き連れて百道の海岸で潮干狩りをしたり、校庭に雪が積もった日には雪合戦をしたりと、クラスの皆で学校生活を楽しむ雰囲気がありました。
5、6年生の頃は、地域の剣道教室に通っていて、地区の大会で優勝したり、その他地域のソフトボール大会で優勝し、福岡市の大会に出場するなど、いろいろなイベントに参加させてもらい充実した小学校生活でしたね。
中学に入ると、1年生から学習塾に通い始めたので、生活の中で勉強の比重が大きくなりました。それでも生徒会の副会長をしたり、文化祭でバンドを結成して、ヴォーカルとピアノを担当し”かぐや姫 “”吉田拓郎 “”井上陽水 “などの和製フォークを演奏したりと、中学校生活も充実していました。

中学文化祭

久留米大附設では
運動サークルを起ち上げ
扶桑学寮では青春謳歌

久留米大学附設高校に進むも、当時は運動部がありませんでした。そこで友達とバスケットボールサークルを作り、近くの明善高校と練習試合を楽しんでいました(笑)。
私は学校に併設された”扶桑学寮“で3年間をすごしました。同世代の友人と3年間、親元を離れてすごしたのは貴重な経験です。
寮にはまだバンカラな気風も残っていて、3月に3年生が退寮する時は夕方から徹夜で、1、2年生と語る会も開かれていました。

九州大学医学部入学
バドミントン部で
”西医体“”九山医体“出場

医師である父から”医師になれ“と言われた憶えはありませんが、幼い頃から日常的に見てた背中が雄弁だったのでしょう。九州大学医学部を受験しました。
無事入学し、当時はマイナーなスポーツでしたが、取組みやすいと思いバドミントン部に入りました。しかし実態はハードで、空調のない体育館で、窓を締め切っての練習を1年中行っており、夏場はフラフラになっていました。忍耐力はついたのではないかと思います。

医学部バトミントン部時代

入局は第2内科の
藤島正敏教授に師事
”脳循環研究室“に入研

 入局にあたり、先輩たちには外科向きと言われていましたが、呼吸器内科とか神経内科
といった専門性の高いところより、広く内科全般を診れるところはと、勧誘の会を経て、バトミントン部顧問でもあった第2内科の藤島正敏教授に師事しました。
 2年間の研修後に、研究室を決める際は、7つの研究室(高血圧、腎臓、脳循環、内分泌、肝臓、消化器、久山町研究)から1つを希望することになっていました。父の影響か、脳に興味があり、脳卒中を研究する”脳循環研究室 “に入り 、研究室主任の佐渡島省三講師の直接指導を受けました。
 大学では、SHRという高血圧自然発症ラットに脳梗塞を作り、事前に降圧薬を投与することで、ダメージを軽くすることができるかという実験をやっていましたが、なかなかデータが出ずに苦労しました。

聖マリア病院での多くの臨床経験

入局後3年目に、国立循環器病センターのレジデントを終え、九大に戻られてまもなかった岡田靖先生と朔義亮先生、それと私の3人で、聖マリア病院に出向し、脳血管内科を立ち上げることになりました。勤務は1年間でしたが、聖マリア病院は急性期病院として患者が多く、沢山の臨床経験をさせてもらいました。お2人には脳卒中に関する知識、技術、患者さんとの接し方などを学ばせて頂きました。すごく忙しかったけど充実感がありました。私の臨床の基礎はここで培われましたね。

九州医療センター開設時に
岡田靖先生と共に脳血管内科に勤務

国立福岡中央病院と国立久留米病院が統合され九州医療センターになったばかりの平成6年に、再び岡田靖先生と共に、脳血管内科で勤務しました。その時期に学位を取得し、九大の脳循環研究室から代々先輩方が留学されていた米国アイオワ州立大学へ行くことになりました。

米国アイオワ大学留学
研究の傍らイエローストーンへのドライブ
クリスマスパーティを家族で愉しむ

平成9年、妻と3人の娘を連れて、米国アイオワ大学に留学しました。血管生理の大家である にリサーチ
フェローとして師事し、ラビットの血管に遺伝子操作でSODやeNOSを発現させて、血管反応性をみたり、脳血管に効率よくSODを発現させる方法を研究していました。
長期の休暇中に車を運転してアメリカ全土を旅行しました。中でも印象深かったのはイエローストーンです。日本とはスケールの違う や多くの野生動物に遭遇して、子供達と一緒に大自然を満喫しま
した。 の自宅でのクリスマスパーティーはラボのスタッフ一同が集まり、愉しかったですね。
論文は2、3本書いただけですが、ラボの運営の仕方や病院の体制づくりなど、大いに勉強になりました。

留学中家族旅行(Disney Worldフロリダ)
国 際 学 会 で 家 内 と( ト ル コ ・ カ ッ パ ド キ ア )

帰国して国立療養所福岡東病院の
脳血管内科部長として赴任

 平成12年に帰国して、平成15年より国立療養所福岡東病院の脳血管内科部長。この時期にお世話になったのが、九大第2内科の先輩で、先々代の院長上野道雄先生。九州厚生局にもおられたので、医療安全に関する考え方は厳正で適確でした。病院経営においても参考になる意見を頂きました。

24時間365日、
断らない医療をモットーに
ハード&ソフトのさらなる発展を

福岡東医療センターの前身は、昭和5年に3つの結核療養所を統合して発足した結核専門の医療機関です。その後、医療環境の変化に合わせて「慢性疾患の高度専門病院」に舵を取り、その後「急性期型病院」へと変貌してきました。
 現在は救命救急センター、災害拠点病院、地域医療支援病院、地域がん診療拠点病院、第1種・2種感染症指定医療機関等の指定を受け、急性期医療とセーフティーネット医療といわれる結核、重度心身障害児者の診療も担い、さらに特殊感染症やがん診療、災害診療にも対応できる、多様な機能を持った病
院に発展しています。
 この5年間、感染症指定医療機関として、これまで培ってきたノウハウを活かしながら、多数の新型コロナ患者や発熱患者の診療を行っています。3年前に「病院機能評価」を受審し認定されたことを機に、院内無料Wi Fiサービスを開始しました。患者さんはご自身の病気の医療情報を手軽に入手でき、メールや動画を楽しむことも可能で、快適な入院生活を送っていただけます。これからもICTを活用したサービスを提供しようと考えています。
 地域医療支援病院として、 時間365日、「断らない医療」をモットーに、救急患者はもちろん、幅広い領域の疾患に対応し、地域に必要な病院として、スタッフ一同、粉骨砕身努力していきます。

独立行政法人国立病院機構福岡東医療センター

住  所/古賀市千鳥1-1-1
T E L/092-943-2331
院   長 /中根 博
診療内容/脳神経内科、腎臓内科、血液内科、糖尿病・内分泌内科、 感染症内科 、消化器内科 、循環器科 、呼吸器内科 、 心療内科 、外科 、消化管外科 、肝胆膵外科 、乳腺外科、血管外科、脳神経外科、整形外科、呼吸器外科、 歯科口腔外科、小児科、皮膚科、婦人科、麻酔科、病理 診断科、放射線科、救急科、リハビリテーション科
受付時間/ 8:3 0 ~ 11:0 0
診 療 開 始/ 9:00 ~
休 診 日 /土曜、日曜、祝日、年末年始(12/29~1/3)
H  P / https://fukuokae.hosp.go.jp/

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