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少年時代に芽生えた医師への憧れ
九大野球部の先輩3人の指導で外科医へ
のちに世界文化遺産となる炭鉱のある高島に生まれ、多くの親戚の健康や生命をサポートしようと決意した森田勝少年は九州大学医学部に進学、野球部OB、島田光生先輩(現徳島大学教授)、大野真司先輩(現相良病院院長)、池尻公二先輩(元九州医療センター外科部長)からの勧めで九大第2外科に入局。九州がんセンター消化器外科では最先端の医療とともにスタッフ皆で患者を支える”チーム医療”を体験した。米国テキサス大学MD AndersonCancer Center留学を経て九州大学で後進の指導に注力し、2024年4月九州がんセンター院長に就任。”病む人の気持を””家族の気持を”の精神で、今できることは何かを常に考え行動すると森田勝院長は力強く語った。

世界文化遺産高島炭鉱で生まれ
父君の転勤で北九州育ち
父は9人兄弟の2番目で、筑豊の田舎で貧しい生活を送っていました。当時、筑豊で栄華を極めた炭鉱業にあこがれ、官立明治専門学校(現九州工業大学)の鉱山科に進み、長崎の端島(軍艦 島 )の 三 菱 鉱 山 に 勤 務 。そ こ で 長 兄 は 生 ま れ 、姉と私はとなりの高島で生まれました。ちなみに1974年に端島炭鉱、1986年に高島炭鉱がそれぞれ閉山。両島併せて、2015年7月世界文化遺産に登録されています。
父は若くして現場責任者として200名程のスタッフを束ね鉱道に潜っていたそうです。しかしハードワークが祟り、結核を罹って三菱系列のセメント会社に転職。北九州平尾台に石灰石の採掘場があり、その周囲の黒崎、苅田など社宅を転々と、出身は何処と訊かれると、北九州と応える由縁です。

小学生時代は原っぱの生きものがかり
愛犬シロとカラーひよこ
黒崎の筒井小学校そして苅田小学校に転校。何より夢中だったのは「生きもの」。草ボーボーの小さな野原がフランチャイズでした(笑)。ドジョウや蛙などを部屋で飼っていて、トカゲが脱走し母が何度もびっくり仰天(笑)。
また捨て犬を連れてきて”シロ“と名付け、社宅の庭を一緒にかけまわりました。小学校では授業が始まっても小池に入りヤゴやオタマジャクシをとっていました(笑)。先生は怒りもせず、それどころかその熱意と集中力を褒めてくれました。
また、八幡製鉄の起業祭に行った時、”カラーひよこ“が欲しくて堪らなかったのにその場で云えず帰宅して母に伝えると「思ったことはその時に云いなさい。後からでは遅い」と猛烈に怒ら れ ま し た 。幼 い 頃 の 辛 い 記 憶 で す が 、そ の 後 の人生の教訓として活きてますね。一方、父は晩酌の時に仕事の話も多く「上司に媚びず、部下が第一」と言っていました。父を最も尊敬し、父のようでありたいと今でも思っています。
苅田へ転勤がきまり、母は「シロはつれていけない」と困っていました。その頃、最愛のシロは「自分の立場を悟ったかのように」フィラリアを患い、私と姉の前で静かに息をひきとりました。

中学時代は軟式テニス部でキャプテン
雪がふると下校になる中学へ転校
苅田中学校では軟式テニス部でキャプテンを努めていました。支部大会で優勝しましたが、県大会の一歩手前で負けるという戦績でしたね(笑)。
そして中学3年の夏休みの後に、小倉南区の平尾台の麓の東谷中学校に転校、冬になり雪が降ると下校(笑)。とても田舎の小さな中学校でした。
日田彦山線で辛苦通学の小倉高校
春の選抜甲子園出場で熱烈応援
高校は小倉高校。とにかく通学が大変で、日田彦山線で往復約2時間。1本乗り遅れると悲惨で、登下校に必死でした。そのため体育会系クラブ は 諦 め ま し た 。「 質 実 剛 健 」 が 校 風 で 、 学 帽 が少し曲がっていたら教師に殴られました(笑)。無難な”科学部“に入り、部員とソフトボールに興じ友達づくり(笑)。基本的には普通の高校生でしたが、担任の教師からの指名で3年間、級長をやらされました(笑)。
その当時、わが小倉高校は高校野球”春の選抜・甲子園“に出場。部員に友達がいて、応援団長とも仲良しで、応援に行くのが大好きでした。帝京高校に勝ったけど、強豪蓑島高校には敗けました。当時はホントに強かった。それから40年間、出場なし。
製薬会社のMRの長兄のひと言
九州大学医学部で
全学ソフトボールから医学部野球部へ
生きものが好きだったので、進路を生物学か薬学か迷っていた時、長兄が製薬会社のMRで”医学部に行けば、両方できる“と諭してくれたことで医学部受験を決めました。
九州大学医学部では全学のソフトボール部に入部。毎日が超ハードな練習。それでも楽しくて教養部の2年間はソフトボール三昧でした。夜は仲間と食事、異業種のこの仲間達は私の親友です。3年生の専門過程となりソフトボール部は引退しましたが、医学部の野球部に誘われ入部、6年生まで、授業はそこそこで頑張りました(笑)。
また実習や様々な見聞を通して、そして父が9人、母が7人兄弟と多くの親戚がいたのですが医師がいないということで、皆の健康や生命をサポートするために最前線の臨床医になろうと決めました。
野球部先輩のアドバイスで外科医へ
三対三で公私共に世話になる
救急蘇生から糖尿病、循環器まで何でも診れる医師になりたいと思っていた時に、先に二外科に入局していた野球部の三名の先輩から「外科医だったらそうなれるぞ」とアドバイスを受け、その場で外科医になることを決意。単純ですね(笑)。
三名は、現在それぞれ徳島大学教授の島田光生先生、相良病院院長の大野真司先生、元九州医療センター外科部長の池尻公二先生。私の同期
の現在神戸大学教授の掛地吉弘君と国際医療福祉大学病院院長の吉野一郎君を引き連れ飲みに。それこそ三対三でそして同期3人とも(笑)第二外科へ入局しました。
しっかり鍛えられた九大第二外科
九州がんセンターで最先端の
チーム医療
当時の九大第二外科は、あの”白い巨塔“さながら上下関係に厳しい、善い意味でむかしの医局でしっかり鍛えられました。大野先輩から食道グループに勧誘され、そこで研鑚を積み、1991年、九州がんセンター消化器外科に勤務。大田満夫院長のもと、患者さんの気持ちに寄り添い支えながら、がん告知から最先端の医療を提供する現場に参加できたことは僥倖でした。
米国テキサスの世界一の
がんセンター留学
抗がん剤の基礎研究に没頭
1994年、折角いくなら世界一のがんセンターと思い、米国テキサス大学MD Anderson Cancer Centerのパキスタン系英国人のDr.Siddikのラボに、妻と2歳の娘を連れて2年間留学。食道がんの診療には手術だけでは不十分、抗がん剤の勉強も不可欠と思い、その基礎研究、 cisplatinの耐性に関する研究に没頭しました。様々なセミナーでは多様なディスカッションがフランクに行われていました。また多くのボランティアもいて、やはりアメリカはスゴイなぁと思いましたね。

九州大学医学部でベストな治療を追及
後進に活力のある外科医への指導
1996年帰国して九州がんセンターに戻り、翌1997年九州大学医学部第2外科助手を皮切りに、2012年九州大学消化器・総合外科診療准教授、2013年九州大学外科分子治療学講座准教授そして現在九州大学医学部臨床教授として、イキイキとした外科医を目指そうと後進の指導に注力しています。つまりは知識・技術・情熱のすべてを有し、患者さんにベストな治療は何かを追求する姿勢が大切だということですね。
1998年国立療養所福岡東病院外科医長・2002年産業医科大学第二外科講師・2011年九州がんセンター消化器外科医長・2014年九州がんセンター消化器外科部長・2015年九州がんセンター統括診療部長・2020年九州がんセンター副院長
九州がんセンター院長就任し
基本理念の具現化とスタッフサポート
九州がんセンターにはこれまで4回、赴任し、本当にお世話になったと感謝しています。2024年4月に第9代目の院長として就任し目指していることは、初代入江院長の”病む人の気持を“、2代目森脇院長の”家族の気持を“という精神を磨く一方で、新しい発想をもって「時代のニーズに応じたがん専門病院」になっていくことです。
そのためには、患者さんの笑顔を目標として、スタッフもやりがいと働き易い環境下でハッピーになること、つまり患者さんと病院スタッフが「笑顔のループ」でつながることが大切ですね。
◆取材協力 独立行政法人国立病院機構 九州ガンセンター
住 所/福岡市南区野多目3丁目1番1号
T E L/092-541-3231(代)
院 長 /森田 勝
診療内容
[外科系]消化管外科、肝胆膵外科、呼吸器腫瘍科、婦 人 科 、頭 頸 科 、乳 腺 科 、泌 尿 器 ・ 後 腹 膜 腫 瘍 科 、整形外科、皮膚腫瘍科、形成外科、歯科口腔外科
[ 内 科 系 ]血 液 ・ 細 胞 治 療 科 、小 児 ・ 思 春 期 腫 瘍 科 、 消 化 器 ・ 肝 胆 膵 内 科 、消 化 管 ・ 腫 瘍 内 科 、消 化 管 ・ 内 視 鏡 科 、サ イ コ オ ン コ ロ ジ ー 科 、腫 瘍 循 環 器 科 、緩 和 治 療 科 、老 年 腫 瘍 科 、糖 尿 病・代 謝 科
[ 外 科 系 ・ 内 科 系 以 外 ]麻 酔 科( 手 術 部 )、画 像 診断 科 、放 射 線 治 療 科 、病 理 診 断 科 、臨 床 検 査 科
受付時間/月〜金曜 8:30~11:00
休 診 日 /土・日・祝日、年末年始
H P / https://kyushu-cc.hosp.go.jp









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