薬店を営む両親のもと佐賀郡川副町に生まれる有明海に近いヤンチャ坊主ばかりの小学校生まれたのは佐賀県佐賀郡(現在佐賀市)川副町、オスプレイが配備されようとしている佐賀空港からクルマで10分ほどのところです。当時両親は薬店を営んでいて、父の兄の伯父さんは長崎大学医学部を出て唐津で川﨑内科を開業していましたが、1945年8月9日の原爆で被爆していて身体が弱かったこともあり閉院は早かったようです。

On — 仕事のこと
小学校は南川副小学校。有明海に近く、友達は海苔養殖業者のこどもが多く、ヤンチャでした(笑)。一学年の生徒は120名程でしたが普通にしていて成績はまあ良かった(笑)。
その頃、母方の叔父さんがラジコンをやっていて、その影響でプラモデルの戦車に夢中。外装はどうでもよく内部のメカニズムに興味津々。叔父さんからも”変わったヤツだな“と(笑)。
暴れん坊ばかりの川副中学で軟式テニス部タミヤのラジコンポルシェに夢中中学校は、南川副小、中川副小、西川副小が集まる川副中学校。いろいろなヤンチャ坊が入り交じって学校崩壊の様相を呈している中、私は軟式テニス部へ(笑)。後衛で3年間頑張りましたが、戦績はパッとしませんでした。
中学1年生の頃に、あの”タミヤ“から販売された高性能なモーターで動くラジコンのポルシェを買ってもらってから、卒業するまでラジコンに嵌りました。基本的に既製品よりも分解したパーツを組み立ててバギーや、飛行機なども作っていましたね。成績は普通にしていて学年で10番以内には入っていたと思います。
佐賀西高へは田んぼ道の自転車通学理系の3年9組で当初は薬学部志望高校は佐賀西高校。博物館のそばにあって佐賀では一番の進学校で、わが川副中からは15名ほどが入学。自宅から佐賀西高まで、片道約30分かけて田んぼ道を自転車通学。雨が降ろうと炎天下でも春夏秋冬3年間、大変でした(笑)。そんな中、軟式テニスは続けていていましたが県大会ではベスト16位が最高成績。学業成績は川副中時代の成績は文字通り”井の中の蛙“で、全体の半ば程度でしたが、高校2年生の時の県下一斉テストで物理満点を取ったことが、理系大学受験への遠因になった気がします。
ただ映像として残っているのは体育祭のファイアーストームぐらいで、高校時代は粛々とセピア色でしたね。それでも高校3年生の時には理系のクラスに入れたけれど優秀な生徒ばかりで、実家が薬店だったので当初は薬剤師をと思いましたが一念発起、当時2次試験が数学だけだった大分医科大学を受験しました。
大分医科大学入学してバトミントン部へ5年生の時にシングルスで優勝大分医科大学に入学し、テニスはやめてバドミントン部に入部。テニス経験者だからスマッシュなど上から打てるのが有利でしたがなかなか勝てない。3年生の時に先輩達と相談し、医大ヶ丘周囲の道路を下って上る6kmほどの走り込み、その後のダッシュ、筋トレなどハードなトレーニングを週4日続けることで少しずつ勝てるようになり、5年生の時に大分県の学生選手権(大分大、大分医科大、日本文理大、別府大、大分高専が参加)で、シングルスで優勝しました。快挙ですね(笑)。
佐賀医科大学内科(循環器内科)に入局教授室でカテーテル論争大分医科大学卒業後は地元の佐賀医科大学内科に入局し、内科全科を研修医として巡りました。2年目には多久市立病院に出向しましたが、内科医は院長と2人で何でもしなければならず、勉強になりました。
妻は大分医科大学バトミントン部の同級RefreshMagazineOffTime2025.7|1On大分医科大学から佐賀医科大学へ循環器でカテーテル手術真一文字両親は薬店経営、父上の兄の伯父さんは内科医院を営んでいた環境の中、当時のヤンチャ本流の小学生中学生の荒波にのまれず、大分医科大学に入学、佐賀医科大学循環器内科に入局。松尾修三教授に師事し、以後カテーテル治療の恩師福岡徳洲会病院(現川﨑幸病院)の中村淳先生、現在天神会理事長古賀伸彦先生にカテーテル治療のバトンを渡され、現在病院長として、働き方改革などで翻弄医療の海の中、先輩医師の恩に報いるべく懸命に舵を握り続けている。
[OffTimeInterview]社会医療法人天神会新古賀病院院長川﨑友裕2|RefreshMagazineOffTime2025.7生で、多久市立病院を去る頃に結婚しました。
翌年、佐賀医科大学内科に戻り、医師4年目に松尾修三教授の循環器内科に入りました。循環器内科では、小倉記念病院の延吉先生らが始められていたカテーテル治療に興味があり、松尾教授に”カテーテル治療をやりたい“と訴えたところ、”年功序列だ、まだ早い“と一喝され教授室で論争になりました。
この時は当時の助教授の早野信元先生に仲裁に入って頂き取りあえず鎮静したのですが(笑)、これが沖縄に行くきっかけでした。
沖縄ハートライフ病院、沖縄南部徳洲会病院トータル5年のカテーテル治療のスキルアップを大分医科大学バトミントン部の先輩で当時福岡徳洲会病院循環器内科部長の中村淳先生からの”来年沖縄でカテーテル治療を始めるから一緒にやろう“というひと言で一念発起し、平成4年、沖縄ハートライフ病院循環器科に勤務することになりました。完成したばかりの全室個室のオーシャンビューの患者さんにとっても快適な病院でしたが、翌年、カテーテル治療の需要の多い沖縄南部徳洲会病院循環器科に異動しました。
沖縄時代は中村先生にカテーテル治療の全てを叩き込まれ、また当時販売され始めたマッキントッシュのノートパソコンを活用しながら、治療した患者さんのデータ整理や学会発表用のスライド作りなどを厳しく指導されました。トータル5年の沖縄滞在はハードでしたが私にとって黄金の日々でしたね。
平成9年古賀病院循環器科へ挽地先生と数多のカテーテル手術数多のカテーテル治療を経験し自信を深めたことと長男の小学校入学もあり、5年間の沖縄ライフに見切りをつけました。再スタートを切ろうとしていた時、大分医科大学の同級生で親友の挽地裕先生の誘いで平成9年4月、古賀病院循環器科に勤務することに。その頃の古賀病院は年間800件ものカテーテル治療を少人数で行っていたこともあり、、現在医療法人天神会の理事長をされている古賀伸彦先生に温かく迎え入れてもらったことで、私の第2のカテーテル人生が始まりました。
Off — オフのこと
昭和63年5月佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)内科平成1年6月多久市立病院内科平成2年6月佐賀医科大学内科平成4年6月沖縄ハートライフ病院循環器科平成5年8月沖縄南部徳洲会病院循環器科平成9年4月古賀病院循環器科平成14年4月新古賀病院循環器科部長平成21年6月新古賀病院心臓血管センターセンター長平成24年6月新古賀病院副院長令和4年4月新古賀病院院長、久留米大学病院臨床教授平成24年新古賀病院院長就任認定地域医療支援病院として筑後広域医療圏の先進医療、救命救急医療に貢献久留米にはそもそも市立病院がありません。そのかわり久留米大学病院を中心に、聖マリア病院、久留米総合病院、、久留米大学医療センター、新古賀病院があり、救急車の搬入件数もその当時から年間3000件以上受け入れるなど、市立病院的な役割を担ってきました。また地域医療支援病院として認定されたことで、久留米だけでなく筑後など含む医療圏の中核病院として、地域の患者さんの診療はもとより増加する救急患者に対応するため、医療スタッフのスキルアップとともに病院としての機能の充実を図ることに力を注いでいます。
一方で2024年度から始まった﹁医師の働き方改革﹂ではすごく苦労しています。新古賀病院では当初から﹁A水準﹂を目指しているため、年間960時間以内という時間外労働の制限が重くのしかかってきます。このため時短の方策として看護師の﹁特定行為﹂による医療補助やメディカルクラークによる医療DXを活用したタスクシフト/タスクシェアは必要ですし、その整備も急務となっています。
とはいえ筑後広域医療圏における先進医療や救急医療の現場で先頭に立ち、信頼を裏切らない良質の医療サービスを提供していくことは私たちの役目なので、満足の2文字を頂けるよう、今後も日々努力していきたいと思っています。
発砲スチール製の飛行機をラジコン化最近は指先に載るくらいの超小型の高性能モーターが発売されていて、それを手で投げて遊ぶ発砲スチール製の飛行機に取り付けて、ラジコン化することを楽しんでいます(笑)。
昔はエンジンでしか飛ばせなかった飛行機が、モーターでしかも自分で改造して作った飛行機を簡単に飛ばすことが出来る時代が来るなんて、ラジコン好きの私にとってはとっても嬉しいですね。
週一、日曜日の10kmランニングこれからはマラソンチャレンジ昔やっていたバドミントンは出来ませんが、その代わりに肥満予防と体力づくりも兼ねて、5、6年前から走るようになりました。
最近では毎週日曜日に10kmほど、同じマンションの走り屋さんと一緒にランニングしたり、東京への出張の際には早朝に皇居の周りを走ったり(笑)。実は循環器のドクターたちの中には走るのが好きなひとが多く、大きな学会などでは早朝に集って一緒に5kmから10km程度のランニングをしたりしますね。
またこの前は久留米から朝倉にある花立山温泉まで20kmほどの距離をゆっくり走って、温泉に浸かって、帰りは電車で(笑)。これからは少し距離を少しづつ伸ばして長距離にチャレンジしてみようと思ってます。
いま夢中なのはラジコンとランニングOff1994年TCT@ワシントン斎藤先生、挽地先生、田中先生と2010年ACCにて2023年CCT@神戸にて早朝ランPCIワークショップ@アルゼンチン改造ラジコン飛行機大学4年生西医体にて
院長のOff Time









