On — 仕事のこと
小学生で目指した医師への道
いまは「至誠・五省」の精神で最善の医療を
外科医の父、親戚も医師という環境で育って、小学生の頃には判然と医師になると決意したという古森公浩病院長。
九州大学医学部のサッカー部で鍛えた心身で、医局は井口潔教授の第2外科へ。研修2年目に血管外科の若手家守光雄先生の手術に触発され、栗山熙教授の薬理学教室で研鑚。そして米国ミネソタ州のMayo Clinicに留学し、Paul Vanhoutte教授に師事。その際、Peter Gloviczki教授と運命的な出会いがあった。帰国して九大第2外科に帰局。20年間の名古屋大学血管外科教室教授を経て、済生会八幡総合病院 病院長に就任して4年。
古森病院長は、出会ったすべての方々が感謝すべき恩人であり、座右の銘である「至誠・五省」の精神で、病める人のための最善の治療を提供すると力強く語った。

父上、親戚も医師の環境で育つ
当時マイナーなスポーツだったサッカーに夢中の小学生
生まれたのは福岡の大手門、平和台球場の近くです。父は元々外科医でしたが、地域の人々にとって身近な医院を開業していました。親戚にも医師が多く、そういった環境に育ったからか、小学生の頃には医師になりたいと思っていました。
小学校は福岡教育大学附属小学校に通い、サッカー好きな父の影響で、放課後は友達とグラウンドでサッカーに興じていました。当時はメキシコオリンピックで日本代表のフォワードの釜本邦茂選手が6試合で7ゴールを上げ注目されましたが、一般的にはマイナーなスポーツで、ワールドカップに出場するなど夢の時代でした。現在ヨーロッパで日本人選手が活躍しているなんて、隔世の感がありますね。
中学3年生でサッカー部キャプテン
修猷館高校から九州大学医学部受験
中学校はそのまま福教大附属中学で、サッカー部に入部しました。ポジションはハーフで、中学3年生の時にはキャプテンをしましたが、県大会に行く前の地区大会どまり(笑)。
進んだ修猷館高校では部活はせず、勉学に励みました。熱中したのは運動会。副ブロック長で頑張りました。いまでも記憶に残る愉しい青春の一コマですね。
医師である父から言われたわけでもありませんが、人のため、生命に関わる仕事をと、小学生の頃からの夢を実現すべく、医学部受験を決めました。
医学部サッカー部”九山医大”で2度優勝
九州大学医学部に進学し、サッカー部に入部しました。”九州山口医科学生大会”では、3年生の時に優勝し、5年生の時にはキャプテンをしていて、宮崎医科大学が主幹した大会で優勝と、在学中に2度の優勝。”西日本医科学生大会”では、記憶が朧気ですが”ベスト8″。サッカーに没頭した愉快な大学生活でしたね。

九州大学第2外科入局
血管が縫える消化器医を目指す決意
入局は九州大学第2外科で、井口潔教授に師事しました。
研修医2年目に、当時福岡中央病院(現九州医療センター)で目撃した血管外科の若いドクター家守光雄先生の消化管の手術はもちろん、血管をつなぐ手技の見事さに瞠目し、”血管が縫える消化器医”になろうと決意しました。
それで九大第2外科の血管グループ、血管平滑筋の研究で世界的に有名であった栗山熙教授の”薬理学教室”で研鑚に励みました。

米国ミネソタ州Mayo Clinic留学
血管外科医Peter Gloviczki教授との運命的出会い
1987年に、九州大学大学院時代に結婚した妻と息子と娘を連れて、米国ミネソタ州のMayo Clinicに留学しました。
Nitric Oxideの研究で世界的に有名な薬理学教室のPaul Vanhoutte教授のもと、自家静脈グラフトの内皮機能の研究を行いました。その際に血管外科のPeter Gloviczki教授と運命的な出会いがあり、共同研究を行いました。

エピソード:Peter Gloviczki教授(2013年アメリカ血管外科学会会長、元 Journal of Vascular Surgery のチーフディレクター)との運命的出会い
6万人の人口しかない米国ロチェスターに世界中から研究者が集まる世界一のMayo Clinicがあり、たまたまミネアポリスに古森公浩先生が学会に行くため乗った飛行機の隣の席に座ったのがPeter Gloviczki教授で、ここぞとばかりに静脈グラフトの話をしたら、外科のカンファレンスで認められたら1万ドルの研究費が出るよと言われ、論文を執筆する動機になり、以来共同研究に至る。まさに運命的な出会いである。

九州大学第2外科に帰局
1990年、九州大学第2外科に帰局し、杉町圭蔵教授のもと”大学人”としての臨床・研究・教育の三本柱の重要性を学びながら「一に人格、二に学問」という、人としての生き方を肝に銘じ、血管外科の臨床と基礎研究に取り組みました。

名古屋大学血管外科初代教授として赴任
20年間の要職歴任
2002年4月1日に名古屋大学血管外科教室に初代教授として赴任し、20年間、日本血管外科学会、日本心臓血管外科学会、日本外科学会、日本脈管学会などの要職を歴任し、2022年3月31日に定年退任を迎えました。
2022年 済生会八幡総合病院長就任
病院長職務の中、病院移転を経て新病院での最新最善の医療体制を
2022年4月1日、済生会八幡総合病院の病院長に就任しました。当初、教授として名古屋大学に在学していた空気感覚と雰囲気が違って戸惑いましたが、前任の北村昌之病院長にご指導を頂き、何とか4年勤めてきました。その間、2024年12月に八幡東区春の町から八幡西区則松へと移転もあり大変でした。
本年で99年目を迎える歴史ある「済生会の病院」として多数の先駆的医療に取り組み、昭和35年から西日本地区で最初の胃集団検診を開始、昭和42年には西日本で有数の手術症例を誇る脳外科を開設し、昭和43年には九州で初めての人工腎臓設備を導入し腎不全患者の透析治療をスタート、昭和47年には西日本地区の一般病院では最初に生体腎臓移植に成功しました。
昭和55年にCAPDを導入し、昭和57年には献腎移植も行っています。
昭和62年9月1日「済生会八幡総合病院」に改称後も、平成2年12月に西日本で初めて腹腔鏡下胆嚢摘出術を施行し、平成3年12月には世界で初めて腹腔鏡補助下胃切除術を行っています。
新病院では約77%が個室で、ハイブリット手術室や内視鏡手術支援ロボット「ダビンチXi」など最新の設備を導入しています。
医師、看護師はじめ医療スタッフのさらなる充実を図り、最新鋭の高度な検査、治療を行う医療機器を、今後も積極的に導入し、”入院したい病院””家族を入院させたい病院”を目標に、そして”地域で信頼される病院”を目指して、スタッフ一同、日々研鑚努力を怠りません。
略歴
1982年3月 九州大学医学部 卒業
1982年4月 九州大学医学部第二外科に入局
1987年7月 米国メイヨークリニックに留学
1990年4月 九州大学医学部附属病院 助手(第二外科)
1998年6月 九州大学医学部附属病院 講師(第二外科)
2001年8月 九州大学大学院消化器・総合外科学(第二外科) 助教授
2002年4月 名古屋大学大学院血管外科学分野 教授
2022年4月 福岡県済生会八幡総合病院 院長
Off — オフのこと
スポーツ全般を観戦
相撲九州場所は欠かさず枡席で
将棋の藤井総太ファン
趣味はスポーツ観戦
小学生から生粋の相撲ファン
趣味といえば、スポーツ観戦。学生時代プレイしていたサッカーはもちろん、ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック、ベスト8に終わったWBCも楽しみました。
野球は長嶋茂雄、そして何より相撲が大好きで、九州場所は必ず行きます。父が好きで、小学生の頃から枡席で観戦。特に、人気の大鵬より柏戸、そして”憎まれるくらい強い”と言われた北の湖を贔屓していました。去年ですが、大相撲名古屋場所IGアリーナのこけら落としにも行きましたね(笑)。

推しは将棋の藤井総太
名古屋大学に居た時にデビューした藤井総太は好きですね。真面目で謙虚、親御さんも表に出てこない、23歳の大天才を尊敬しています。私は将棋をしませんが(笑)。

