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地方独立行政法人 北九州市立病院機構 理事長 中西 洋一

直方の砂糖屋の息子が5年生の時に突然、将来は医者になると宣言。九州大学を卒業し、胸部疾患研究施設で石橋凡雄先生の薫陶を得、九州厚生年金病院の大内譲先生、アメリカ国立がん研究所のジェームス・マルシャイン博士と知遇を得たことは僥幸だと語り、これからは少子高齢化社会の中、公的病院の役割と使命を追求する事に邁進したいと中西理事長は力強く語った。

中西洋一理事長
フットワークの良い進化した病院を創造したいと熱く語る中西理事長

On — 仕事のこと

医療関係の身内といえば、複雑な話になりますが、廃藩置県が実施された際、下級武士だった祖母の両親はアメリカに渡ることを決意します。

妻の父親が精神病院を経営していて、患者さん達の社会復帰のための現場仕事を私の父の店が協力していた事もあり、しょっちゅう行き来していているうちに結婚するに至ることに(笑)。

小学生時代は勤労少年中学生時代は生徒会役員ながら不良少年小学校は直方南小学校。

小学1年生から生イーストの行商や払いの悪い先への集金、大金持って手形落としなど。

小学5年生の時には東京海上火災の代理店をしたりと、ひたすら家業の手伝いをさせられていました(笑)。

そんな日々を送るうちにすっかり商売が嫌いになり、家業は継がず、将来は医者になると宣言したのが小5の時でした(笑)。

中学は直方第2中学校ですが、少しばかり家業が安定したこともあり、自由を得ました。

中学2年生の時に生徒会の書記長をしていたけど、両親が家業再建に精いっぱいの中、私は自由放任。

鞍手高校でブラスバンド部に入部学生運動のさ中、生徒会長県立鞍手高校に進学し、ブラスバンド部でテナーサックス担当。

部活は楽しかったのですが2年生に進級したとき新部長と反りが合わずに退部しました。

その頃、九大キャンパスに米軍のジェット機が墜落し、学生運動に火が着き田舎の高校にも及んできた、そんな時代でした。

ちょうど生徒会長の選挙が始まったのですが、ノンポリの私はもちろん、そんなものになる気持ちなど微塵もありませんでした。

ところが授業中に何度も校長室に呼び出されて生徒会長立候補を要請されます。

学生運動に被れていた百人以上の上級生に囲まれて小突かれるなどの嫌がらせが、2ヶ月くらい続きましたね。

九大医学部入学そして落語研究会へ夏の合宿は九重の小松原地獄当時は鞍手高校から30人程九州大学に入学しましたが、医学部は平均して6年に1人。

小学生の頃にたまたまラジオで「時蕎麦」を一度聴いただけのうろ覚えで学級会で発表。

落研に入ったキッカケは青春謳歌を夢見る同級生K君に付き合ってワンダーフォーゲル部に入る筈が、隣の部室で無責任な笑い声が続くので覗いてみると畳に炬燵の上のミカン(笑)。

そこに青春があるとばかりに入部して2週間後に寄席があり、K君と私は前座で参加。

K君はしどろもどろの出来で退部し、何とか演れた私は残り、卒業まで続けました。

夏に九重の九大山の家で合宿するのですが、眼前に小松原地獄があり、宴会の後花火大会そして暗闇の中駆け回るのですが、私は地獄の熱湯に片足を浸け火傷。

温泉には片足を挙げて入り、それを見た後輩達はそれが流儀だと同じポーズで入湯(笑)。

毎年誰かが火傷して、私が唯一の医学生という事で、タクシーで同行して病院へ(笑)。

医局は胸部疾患研究施設卒業して、医局は胸部疾患研究施設(呼吸器科)。

当時教授不在でしたが、病理の田中健蔵教授が兼任しておられ、ご指導頂きました。

九大には26の入局先がありましたが、私なりの希望医局のランキングでは呼吸器科は下から3番目。

残念ながら、2年の研修後に教室に戻ると石橋先生は九大を辞められていて、一緒に研究する事は出来ませんでした。

臨床、研究、人生それぞれ三人の恩師に恵まれた私には3人の師匠がいて、臨床の師匠は研修医2年目にお世話になった九州厚生年金病院の大内譲先生。

研究の師匠は留学先のアメリカ国立がん研究所のジェームス・マルシャイン博士。

人生そのものの師匠は石橋凡雄先生で、人生の転機の際に適切なアドバイスを頂きました。

アメリカ国立がん研究所へ留学ある筈の奨学金が存在しない事態に佐賀医科大学助手に在籍していた昭和60年9月、0歳の娘、2歳の息子と妻を連れて、アメリカ国立がん研究所に留学しました。

奨学金が貰えるので行って来いといわれたのに、直前になって実はそれが架空の話ということを知り茫然。

まずはサバイバル奨学金という制度の存在でひと安心、2年目は研究所のスタッフ給与を貰いました。

最初の半年は牛のスネばかり喰って、次は首喰って、腿喰って、最後の半年にやっとロースにありつきました(笑)。

他のスタッフはしっかり土日曜の休日をとっていましたが、私は研究の仕込み準備で土曜日は出勤していて、たまたまクリスマスイブの日が仕込みの日で、同じく出勤していたボスに「今日は家族サービスの日だ」と怒られましたが、ボスもいる(笑)。

大ボスはジョン・D・ミナ博士で、直接のボスはジェームス・マルシャイン博士。

彼は牛肉とジャガイモしか食べないアイリッシュで、学会で3度ほど招聘して来日しているのですが、寿司は見るだけ、たこ焼きをすすめたら「ウマイウマイ」と食べ、中身は蛸だと説明すると、ヒィヒィと奥様に「コイツガオレニタコ食べサセタ」と苦情(笑)。

佐賀医科大学医学部助手に再着任し充実の医師ライフを過ごす昭和62年9月帰国して佐賀医科大学医学部助手に再着任し、充実の医師生活を送り、佐賀に骨を埋めようと思っていたら、「実は6ヵ月のレンタルだった。

6年も過ぎたから戻って来い」と、命じられ平成2年5月九州大学医学部附属胸部疾患研究施設助手として着任。

Off — オフのこと

九州大学病院臨床研究センター設立ARO協議会で初代理事長に平成15年7月に九州大学胸部疾患研究施設教授に就任すると同時に臨床研究センターの立ち上げを命じられました。

当初は5人でスタートしましたが、その後ARO次世代医療センターと改称し120人を超える組織になりました。

大学の発明を実用化するプロジェクトで、シーズの発掘、研究費の補助、特許取得支援、企業との連携支援、治験・臨床研究を推進する等の役割があります。

その後文部科学省から橋渡し研究拠点に指定された組織が集まって「ARO協議会」を立ち上げ、初代理事長になり、オールジャパンで人材育成や大学の発明の実用化をサポートしたり、国に政策提言をするなど、現在は引退しましたが、やり甲斐のある仕事でした。

公的病院としてのあるべき姿を模索平成31年4月地方独立行政法人北九州市立病院機構理事長に就任し、5年経ちました。

北九州市立医療センターが感染症とハイリスクのお産、北九州市立八幡病院は小児を含めた救急医療と災害医療といった政策医療を担う立場にあります。

一時期、公的病院不要論がありましたが、コロナ禍になり、私共は政策医療の担い手として、また公的病院の使命として多くのコロナ患者を受け入れました。

医療センターはがんセンターとしての機能も併せ持ち、それぞれの病院が公的医療機関として医療の充実を図っていきます。

特に少子高齢化が急速に進む中の公的病院はどうあるべきかが課題です。

医療センター建て替えのタイミングで今後は高度の機能と高い効率性を持ち、市民の皆様に信頼される、進化した病院を創造したいと思っています。

和洋中、何でもござれお節料理は夫婦で共同作業料理をするのが好きで、スペイン、イタリア、アメリカ、中華など何でも。

最近はバジルを自宅で栽培し、それをアレンジしたイタリア料理に凝っています。

素材選びから口つけ、盛りつけのバリエーションと愉しいし、仕事をひととき忘れ、ストレス解消ですね。

落語は立川志の輔講談は神田伯山を追いかけて落語研究会に入っていたこともあり、今でも落語が好きですね。

最近聴いた噺家とその演し物だと、柳家三三の「粗忽の釘」、春風亭一之輔の「茶の湯」、柳家喬太郎の「ウルトラのつる」が秀逸。

一カ月間まったく同じだしものを演る「志の輔落語インパルコ」は一般発売開始の時はすでに完売。

講談では神田伯山を贔屓にしていて、福岡に来てもチケットは殆ど手に入らないため、やむなく地方へ。

四国の砥部、東広島の西条、熊本の松橋などにも追っかけました(笑)。

これもひとえに各号表紙を飾り、On・Offスペースのインタビューにご対応いただいた院長はじめ医師の先生方及び、看護師はじめ医療スタッフの皆さまのご協力の賜物と、心より感謝致しております。

特に終息の見えないコロナ禍の中、貴重なお時間を割いていただいたことに重ねて感謝申し上げます。

新年初頭にあたり、皆さまの医療ライフの益々のご清祥をご祈念申し上げます。


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