RefreshMagazineOffTime2025.3|1九重山の山麓で育った少年が祖父の一言で医者の道へ進む福岡大学医学部退任記念誌を拝見し、寄せられた先生方のメッセージに共通する渡辺憲太朗院長のひととなりを表すイメージは、控えめ、正直、誠実、そして仕事に情熱的。祖父、祖母、父、母がそろって教師という環境に育った所為かと。九州大学胸部疾患研究施設(胸研)から医局勤務をスタート、城戸優光医局長の計らいで大学院へ。田中健蔵教授に師事し病理学を学ぶ。

On — 仕事のこと
米国Cornell大学のDr.Jaffe、MayoClinicScottsdaleのDr.Colbyに師事、福岡大学病院では𠮷田稔教授に肺生理学を学んだ。感謝すべき恩人は数知れずと語る渡辺院長。
多感な少年時代を都会と隔絶された自然に囲まれて育つ生まれたのは大分市大道町。父は広島高等師範学校から広島文理科大学へと進み英文学を学びました。地元の大分に戻り高校の英語教師をしていましたが、50を過ぎて請われて女子大の教授になりました。母も大分女子師範学校を出て教師をしていました。
高校教師であった頃の父は転勤が多く、私は佐伯小学校入学直後に大分の長浜小学校に転校。二年生の三学期に家庭の事情で祖父母に育てられることになりました。今は廃校になってしまいましたが、大分県玖珠郡九重町の明倫小学校と南山田中学校という、いしいひさいちのマンガに出てきそうな校名の小中学校を卒業しました。とにかく自然いっぱいの日々で(笑)、春は渓流のハヤ釣り、夏は毎日川で泳ぎ、クワガタムシで遊び、秋は村祭りと近所の柿を盗み食い(笑)、冬は雪が積もれば自作のそり滑り。経済的に豊かとは言えなかったが、祖父母のもとでのどかな、今思えば”贅沢“な日々を過ごしました。
高校は帰宅部オールナイトニッポンなど深夜放送三昧高校は越境して大分上野丘高校に入学。
スポーツに縁がなく帰宅部でした。高校二年生の冬にあの安田講堂事件でしたが、ひたすら登下校する面白みのない高校生でした(笑)。
ビートルズ登場前後の洋楽が好きで”オールナイトニッポン“をよく聴いていました。初期は自前のアナウンサーがパーソナリティーで、確か土曜日が亀渕昭信、金曜日が今仁哲夫、月曜日が糸井五郎、火曜日が斉藤安弘だったような(笑)。
タンゴの好きな洋物かぶれの父や姉の影響もあり、小学六年生の頃からラジオの洋楽番組を聴いていました”9500万人のポピュラーリクエスト“が”オールジャパンポップ20に替わって、1980年代にはその類の番組がなくなってしまい残念でした。私なりの”ビルボードトップも終了(笑)。
祖父のひと言で医学部受験小学2年から中学3年まで育ててくれた祖父が”医者か弁護士になれ“と言い、何故かと訊くと”生活が安定しているから“と。祖父は元小学校長、祖母も元教師で反論の余地なし(笑)。
6年間、荒江の下宿から通いました。当時もう希少だった賄い付きでおばさんが親切で、出るのが悪いようで(笑)、おかげさまで無事に卒業出来ました。
勧誘のご馳走攻めで医局は呼吸器科病理学を学び医師としての方向性決定医局は、杉山浩太郎教授の呼吸器科(胸研)。卒業前は多くの科から勧誘の手紙が来てたのですが、それがなかった胸研の勧誘会に友人に誘われ、ご馳走になったのが運の尽き(笑)。入局1年後に杉山教授が退官、教授不在の中、当時の城戸優光医局長(その後産業医科大学教授)から何をしたいのか訊かれ”大学院に行って病理をしたい“と言うと、すぐに手配してくれました。
胸研の大先輩である田中健蔵教授に師事し4年間大学院で学び、その後1年間、九州大学病院病理部の助手として勤務したことでこれからの医師として進むべき方向が決まったと思います。そこで出会った田中教授の秘書と職場結婚しました(笑)。ちなみに義父は旧制佐賀高等学校と九州帝国大学医学部で田中教授と同級でもあり、先生が媒酌人を引き受けてくれました。
Dr.Jaffeの論文に惹かれて米国Cornell大学留学田中教室で学んだ研究を発展させようと、Onオールスタッフで高齢者に寄り添った医療をと語る渡辺院長[OffTimeInterview]医療法人西福岡病院院長渡辺憲太朗f102|RefreshMagazineOffTime2025.3“2かねてよりDr.EricA.Jaffeに憧れていたので全く所縁もないのに、Dr.Jaffeに手紙を出して何とか拾ってもらい、昭和61年4月ニューヨークCornellに大学に留学。空港に着いたら私の名前入りのウェルカムボードを首から下げている人がいてDr.Jaffe自らお出迎えで感激(笑)。その日は彼の自宅に一宿一飯。
すぐに大学のドミトリーに入居したのですがトイレは共用。その共用の相手が偶然にも北海道大学から来ていた循環器内科の佐々間一郎先生で、終生の友になりました。
マンハッタンですから何でもありで、ボールルームでの社交ダンス、ミュージカル、美術館・博物館巡りなど、何とも愉しい2年間でしたね。
帰国後、福岡大学病院講師着任教授、副院長と30年間勤務帰国した昭和63年7月に福岡大学病院第二内科の講師となり、呼吸器部門のチーフ、𠮷田稔助教授(当時)にお世話になりました。以後30年福岡大学に在籍することに。
昭和63年7月福岡大学病院講師(第2内科)平成11年8月米国MayoClinicScottsdale留学(Dr.Colbyに師事)平成17年10月福岡大学病院教授(呼吸器内科)平成19年4月福岡大学医学部呼吸器内科学講座主任教授平成23年12月福岡大学病院副病院長、卒後臨床研修センター長(〜平成25年11月)平成27年12月福岡大学大学協議員(〜平成29年11月)平成31年4月福岡大学名誉教授米国MayoClinicScottsdaleに短期留学Dr.Colbyの膨大な生検コレクションに感動40を過ぎた頃からこれまでの基礎的な研究手法に限界を感じ、臨床に役立つ病理を学ぶという自らの原点に立ち返ろうと思いました。呼吸器病理の第一人者であるDr.Colbyの膨大な生検コレクションに接したいと、sabbaticalを利用してMayoClinicScottsdaleに留学しました。その経験で、研究の舵を呼吸器病理にきりかえました。その意味で、私にとって貴重な留学でしたね。
Off — オフのこと
西福岡病院院長就任70にして高齢者医療を学んでいます福岡大学を定年(70歳)前の67歳で辞め、研修医の頃からアルバイトに来ていた西福岡病院の院長に平成31年4月就任しました。
私どもの病院にとって超高齢化社会を見据えた思いやりの医療が大切。民間病院としての存在意義を再認識し、基幹病院や大学病院と緊密に連係しながら、仕事の棲み分けが肝要。さまざまな介護施設との連携も大切。
そのためには全スタッフが西福岡病院の社会的役割を理解しなければなりません。
結核療養所からスタートした病院だから呼吸器が得意な医師が多いなどの利点を生かしつつ、来年は婦人科が増員されさらなる充実を図りたいと思っています。
クルマ免許を持たない絶滅危惧種洋の東西を問わず歴史書が好き通勤電車の15分、寝床の15分の読書が無上の悦びですね。クルマの免許を持たないインドア生活者の特技です(笑)。歴史モノが好きで、日本でいえば昭和初期と誰でも好きな幕末モノ(笑)、西洋・中東史も好きです。”素人“の物知りが書いた本がドラマ仕立てで面白いのですが、時折学者の書いた本で軌道修正しながら読んでいます。
この歳になって初めて分かるのですが、科学がいくら進歩しても強欲から破滅へと向かう人間のこころの中は昔も今も同じですね。面白いですね。
ユーチューブで古き良きアメリカンポップス探し音楽は専らユーチューブで聴いています。
中学生の頃なじんだ楽曲を当時のランキング表などをみながら探しています。ジャズ、ロックは評論家のモノ。素人が聴いて楽しいのはポップですね。現在でも、若い頃買ったLP、EPが家に積まれています(笑)。
10回は行ってますが、私はお供です。グルメ番組で仕入れた情報をたよりに老夫婦のミーハー旅行です。私は腰が痛くてもdutyなので行かざるを得ない(笑)。
1969年大学受験用に撮った写真1199年メイヨークリニック・スコッツデール留学時代左から河端美則先生、Dr.KevinO.Leslie、私、Dr.ThomasV,Colby1987年ニューヨークコーネル大学留学時代週末のセントラルパークで家族と1960年頃育ての親である祖父と一緒に1982年頃大学院生時代よく野球をしたが、ボールが前に飛ばなかった2006年ホノルルカラカウア通り沿いのとあるカフェで妻と立院0学2ん外4ン部九統0読書は歴史モノネット検索し廃盤になった洋楽を奥様はハワイ好きOff)ic)器内科学講〜平平成
院長のOff Time









