父君は九大第2内科医師好きなことをさせてもらった少年時代生まれたのは移転前の浜の町病院です。

On — 仕事のこと
小笹団地に住んでいた幼少の頃、父の中根和彦は九州大学医学部第2内科の勝木司馬之助教授に師事し、黒岩義五郎助教授が日本で最初の”神経内科教室“を起ち上げられた時に一緒にそこに移ったと聞いています。
私が小学生の頃は、まだ大らかな時代で、先生が通常の授業のかわりに、生徒を引き連れて百道の海岸で潮干狩りをしたり、校庭に雪が積もった日には雪合戦をしたりと、クラスの皆で学校生活を楽しむ雰囲気がありました。
5、6年生の頃は、地域の剣道教室に通っていて、地区の大会で優勝したり、その他地域のソフトボール大会で優勝し、福岡市の大会に出場するなど、いろいろなイベントに参加させてもらい充実した小学校生活でしたね。
中学に入ると、1年生から学習塾に通い始めたので、生活の中で勉強の比重が大きくなりました。それでも生徒会の副会長をしたり、文化祭でバンドを結成して、ヴォーカルとピアノを担当し”かぐや姫“”吉田拓郎“”井上陽水“などの和製フォークを演奏したりと、中学校生活も充実していました。
久留米大附設では運動サークルを起ち上げ扶桑学寮では青春謳歌久留米大学附設高校に進むも、当時は運動部がありませんでした。そこで友達とバスケットボールサークルを作り、近くの明善高校と練習試合を楽しんでいました(笑)。
私は学校に併設された”扶桑学寮“で3年間をすごしました。同世代の友人と3年間、親元を離れてすごしたのは貴重な経験です。
寮にはまだバンカラな気風も残っていて、3月に3年生が退寮する時は夕方から徹夜で、1、2年生と語る会も開かれていました。
九州大学医学部入学バドミントン部で”西医体“”九山医体“出場医師である父から”医師になれ“と言われた憶えはありませんが、幼い頃から日常的に見てた背中が雄弁だったのでしょう。九州大学医学部を受験しました。
Off — オフのこと
無事入学し、当時はマイナーなスポーツでしたが、取組みやすいと思いバドミントン部に入りました。しかし実態はハードで、空調のない体育館で、窓を締め切っての練習を1年中行っており、夏場はフラフラになっていました。忍耐力はついたのではないかと思います。
入局は第2内科の藤島正敏教授に師事”脳循環研究室“に入研入局にあたり、先輩たちには外科向きと言われていましたが、呼吸器内科とか神経内科といった専門性の高いところより、広く内科全般を診れるところはと、勧誘の会を経て、バトミントン部顧問でもあった第2内科の藤島正敏教授に師事しました。
2年間の研修後に、研究室を決める際は、7つの研究室(高血圧、腎臓、脳循環、内分泌、肝臓、消化器、久山町研究)から1つを希望することになっていました。父の影響か、脳に興味があり、脳卒中を研究する”脳循環研究室“に入り、研究室主任の佐渡島省三講師の直接指導を受けました。
大学では、SHRという高血圧自然発症ラットに脳梗塞を作り、事前に降圧薬を投与することで、ダメージを軽くすることができるかという実験をやっていましたが、なかなかデータが出ずに苦労しました。
聖マリア病院での多くの臨床経験入局後3年目に、国立循環器病センターのレジデントを終え、九大に戻られてまもなかった岡田靖先生と朔義亮先生、それと私の3人で、聖マリア病院に出向し、脳血管内科RefreshMagazineOffTime2025.5|1On
院長のOff Time









