“和をもって絆となし、多職種が一丸となって患者さまを支える”の精神で、リハビリテーションをさらなる高みへ。
平和祈念像のそば、国鉄職員の子息として生まれた義孝少年は生粋の長崎っ子。高校3年時に医師を目指し長崎大学医学部に進学し、医局も長崎大学附属病院脳神経外科。柴田尚武教授に師事、上之郷真木雄先生の指導を受け、静岡県西部浜松医療センターで中山禎司先生にカテーテル治療の洗礼、長崎労災病院で横山博明先生に手術治療を教示され、赴任した島原病院でカテーテル治療を導入。
香椎丘リハビリテーション病院在籍8年。院長として、これまで折々に巡り合った先輩医師への感謝の念を抱きつつ、さらなる専門病院としての発展をと、松尾義孝院長は、柔和な表情の中、一瞬キリッと強く語った。

On — 仕事のこと
長崎市平和公園近くで生まれる 小学校のクラブチームでサッカー
生まれたのは長崎市、平和祈念像のある平和公園に近い平和町です。父は当時の国鉄職員で、母は専業主婦でした。
小学校は夏になるとTVやマスコミで報道される爆心地の山里小学校。クラブチームで小学2年生からボールを蹴っていました。その当時は小学校単位のサッカークラブがあって、めちゃくちゃ強かったのが土井首小学校で、後日判ったことですが、現日本代表監督の森保一さんが同学年でいた(笑)。2回戦までは勝つのだけれど、3回戦ぐらいで土井首小と対戦してコテンパンに負ける。わがチームは街中で、あっちは田舎だから野生児で体力が違うと負け惜しみ(笑)。6年生まで続けました。
長崎大学教育学部附属中学で何となくサッカーを続ける
中学校はそのまま長崎大学教育学部附属中学校に進学しました。それでも進学塾には通って中学受験。後日判ったのだけれど、塾生の中に後の妻がいた(笑)。
3年間サッカー部員でしたが、やっているようないないような微妙な存在で、学業とのバランスであまり積極的ではなかったですね。
長崎西高校で勉強専念 医学部受験を決意する
高校は長崎西高等学校。長崎5校の内、当時は成績だったり、東西南北の地域だったりの総合選抜で、それも籤分けで決められました。
高校3年間は中途半端にクラブ活動するよりも、勉強に専念しようと、いわゆる帰宅部でしたね。
その所為か幸いにも成績は良く、国鉄職員の父は何も言いませんでしたが、親戚にも医師がいなかったこともあり、ならば自分はと、医学部受験を決意しました。
長崎大学医学部入学 奨学金と塾講師
長崎大学医学部に入学し、奨学金とアルバイトで6年間。苦学生という事ではなかったのですが、卒業までの4年間は塾講師をしていて、生徒たちに教えるのが面白く、塾生が増加するなど手応えもあり、充実していました。ちょっとした社会経験でしたね。
長崎大学医学部附属病院入局 救急医療、カテーテル治療の習得へ 厳しい研修医の日々
在学中からの救急医療への興味とカテーテル治療の習得もと、長崎大学医学部附属病院脳神経外科に入局しました。柴田尚武教授に師事し、上之郷真木雄先生に研修医として手術、手技の手解きを受けました。また、研究から臨床まで何でも相談できる頼れる先輩、陶山一彦先生との出会いも大きな財産です。


研修2年目に静岡県西部浜松医療センター脳神経外科に勤務し、部長の中山禎司先生には徹底的にカテーテル治療のノウハウを指導されました。対象者全員の患者さんに先ずカテーテル治療をし、30分以内に先生に声をかけるのが常で、長崎大からの私はなかなか追随できず、気が付けばCT室の横のベッドで寝てたり、小学生の頃同じ塾生で同じ高校だった新婚の妻が待つ自宅へ3日も帰ってなかったりと、それは厳しい日々でした。
今のような『働き方』という概念もない時代で、自分勝手に想像してた医師というスマートな姿が打ち砕かれ、自分の意識をリセット。謙虚に一から勉強しなければと思いました。
足かけ7年の長崎労災病院勤務 急性期医療とリハビリテーションの2本柱
佐世保の長崎労災病院脳神経科には足かけ7年勤務し、横山博明先生にお世話になりました。横山先生は佐世保地区の総合病院で初めて脳外科を立ち上げ、手術も手技に優れ地域の信頼も厚かったですね。リハビリテーションも積極的で、患者さん第一。当時は珍しく土曜日、日曜日も対応していました。
私の急性期医療への取り組みとリハビリテーションの二つの柱、云わば早期発見、早期治療。積極的介入で一日でも早いリハビリ開始という流れが成立した次第です。

島原病院勤務時に脳外科専門医取得 カテーテル治療を導入立ち上げ 急性期医療を突き詰める決意
平成20年4月に長崎県島原病院脳神経外科に赴任。その前の北九州市立八幡病院に勤務していた頃に、小倉記念病院の中原一郎部長先生のカテーテル手術を見学した後に脳外科専門医を取得した事で、先ずはカテーテル治療を導入し立ち上げました。
次に、ホットラインつまりドクター待機システム。いつでも出動できるように携帯電話を握りしめて24時間自宅待機。私は浜松時代を考えると楽勝で(笑)。急性期医療をつきつめる思いで、カンファレンスからその後の懇親会を通して、いわゆる『顔の見える関係』を作ることの大事さを痛感しました。

香椎丘リハビリテーション病院院長就任 脳外科医としてのアプローチ
平成30年4月に、さらなる急性期医療の追求と浜松医療センターで研鑚した嚥下障害治療を含むリハビリテーション充実を図るべく、香椎丘リハビリテーション病院に入職しました。
脳外科からのリハビリテーションが私のスタンスで、患者さんを入院当初から退院に向けて綿密に計画し、かかりつけ医やケアマネージャーなどとの積極的な連携を図っています。
寝たきり「ゼロ」、在宅復帰を目標に、高水準の安心・安全な医療の提供および快適な施設・設備の整備拡充に努め、約100名のリハビリスタッフで365日サービスしています。
そのために、如何に溌剌と心地よく働けるための環境整備がスタッフに必要であるか、しっかり考えたいと思っています。
Off — オフのこと
夢はホノルルマラソン。囲碁はもうすぐ初段。
体力づくりから始めたジョギング 夢はホノルルマラソン
30歳前半まではハードな手術の後に飲酒しても翌日の仕事に影響なかったのが、35歳近くになると体力的に衰えを感じるようになり、飲酒を控え、ジョギングを始めました。夢はコロナ禍で行けなかったホノルルマラソン(笑)。
ジョギングは現在も続けていて、最初は北九州の10kmミニマラソン、ハーフマラソンから始めて、佐賀桜マラソン、指宿マラソンは走破しています。


いつまでも、もうすぐ囲碁初段
こどもが3人いて、頭脳に良いだろうと、囲碁教室に通わせたのですが、彼らはスグ辞めて私ははまって20年。もうすぐ初段と云いながら10年(笑)。
3人の子どもたちには違う道を勧めたこともありましたが、結果的に同じ医療の道を選び、私の『後輩』になってくれたことは、一人の医師として、父親としてやはり感慨深いものがありますね。

略歴
- 平成6年 長崎大学医学部卒業
- 平成6年5月 長崎大学医学部附属病院脳神経外科
- 平成7年6月 静岡県西部浜松医療センター脳神経外科
- 平成8年6月 長崎労災病院脳神経外科
- 平成9年6月 西諫早病院脳神経外科
- 平成10年6月 長崎大学医学部附属病院脳神経外科
- 平成13年6月 長崎労災病院脳神経外科
- 平成16年4月 北九州市立八幡病院脳神経外科
- 平成20年4月 長崎県島原病院脳神経外科
- 平成24年4月 長崎労災病院脳神経外科
- 平成26年4月 佐世保市立総合病院脳神経外科
- 平成28年4月 長崎県島原病院脳神経外科
- 平成29年4月 福岡脳神経外科病院脳神経外科
- 平成30年4月 香椎丘リハビリテーション病院入職



