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OffTime3月号 インタビュー 社会医療法人財団 池友会 福岡和白病院 院長 益田 宗孝

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高度先進医療の充実を図り
24時間365日の救命救急に対応

数多の恩師恩人に報いるべく
新しいステージでさらなる医療研鑚を

 広島学院中学生の時に始めたバスケットボールが、進学した九州大学医学部で徳永晧一教授との縁を結び心臓外科へ。ベルギー留学を経て、50歳でせき損センターで手術後右脚が不自由になるも、奥様の献身的な支えと富永隆治教授の叱咤激励で横浜市立大学第一外科教授になり、業績向上に貢献し、令和3年福岡和白病院院長就任。公私共にお世話になった徳永先生、富永先生、浦池先生はじめ数多の恩人の意志を継ぎ、このコロナ禍の中、次代の医療を見つめた新しいステージを精鋭スタッフとの強固な連繋で、患者様と共に生きると、益田院長は熱く語った。

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ブランド病院として、さらに高みを目指すと熱心に語る益田院長

小学校を3回転校し中高一貫の広島学院へ、そこで出合ったバスケットボールが人生の最初のターニングポイント

  産声を上げたのはほとんど覚えていませんが旧国立福岡中央病院(笑)。幼少の頃は父が九大の耳鼻科の医師だった関係で福岡市の鳥飼に住んでいました。そのあと山口県の萩に移り、下関で父が開業しました。
 小学校は2年毎に3つ転校していて、最後は下関の山の田小学校。そして中高一貫校の広島学院に進みました。小学生の頃は、なぜか植木等が好きでコント55号にはまり、将来はコメディアンになろうと(笑)。
 中学生になると学校の方針で生徒は文系と体育系と両方のクラブに入らなくてはいけなくて、文系は囲碁部、体育系はサッカー部希望でしたが人気集中でバスケットボール部に回され、結局は大学まで続けることになりました。思い起こせば、この時にバスケを選択したことが、私の人生のターニングポイントで、仕事の選択にも妻との結婚にも繋がりました。

祖父はじめ4人が九州大学出身、入るべくして九州大学医学部へ

 
 祖父とその弟、父と父の兄が九大だったので、当たり前のように九州大学医学部に入学しました。
 もうバスケはしないと思っていましたが、先輩からウチのクラブは優勝候補で練習は試合前の2週間だけだという甘い言葉で誘われ入部したものの「九山体」は最下位で、1年中厳しい練習(笑)。その成果か、仲間にも恵まれて2年生の時に「西医体」と「全医体」で優勝しました。この頃、練習中に水を飲むのはご法度で、我慢した後のビアガーデンの生ビールは堪らなく旨かった(笑)。

九大人生26年の運命の始まりはバスケ部部長が徳永晧一教授だったこと

 
 当初は整形外科志望でしたが、当時バスケ部の部長が心臓外科の徳永晧一教授。同級生部員5人の中で一番熱心だったひとりが心臓外科を断念して、示し合わせてもいない残りの4人が昭和55年に入局(笑)。徳永先生はその後“九州医療センター”の初代院長になられましたが、恰幅の良い教授らしい教授で、仲人をして頂くなど公私共にお世話になりました。
 昭和57年に3カ月間“福岡市立こども病院”、その後1年間“九州厚生年金病院”に勤務しましたが、平成元年から2年間のベルギー留学と平成8年から2年間の福岡市立こども病院への派遣をはさんで平成17年大学院医学研究院助教授に。結局26年間九大にお世話になりました。
 

“月月火水木金金"生活からの脱出、ベルギーのルーバンカトリック大学留学

 
 当時徳永先生の教室のテーマソングが軍歌の“月月火水木金金”で、自宅にも帰れず、その環境から脱出すべくあちこち留学希望をアプライしていた時、ちょうど麻酔科の同級生がベルギーから帰って来ていて、臨床と研究両方OKということで“ルーバンカトリック大学”へ。受け入れてくれた理由が一週間前に抄読会で私の論文を読んでいた事。それも最初に書いた学位論文でした。
 さて、ベルギーってどこかと妻と一緒に世界地図を(笑)。最初に家族で住んだアパートが売りに出され、途方にくれたところ、築300年の留学生用宿舎に住めることに。それが世界遺産の“ベギンホフ修道院”(笑)。
 ちなみに“ルーバンカトリック大学”は九大の姉妹校で、創設1425年の歴史を誇る、世界の大学ベスト100に入る名門校です。ここで初めて心臓移植を経験し、論文も五つ程書きましたね。仕事の後のビールは格別(笑)。ベルギーは1000種類もあるビール王国で、人口5万人のこの街にも工場があって最高でした(笑)。

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ルーバンカトリック大学留学時の指導教授と
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ルーバンカトリック大学所有のフレンチレストラン前で
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留学時に住んでいた世界遺産で元修道院の留学生宿舎

福岡市立こども病院で小児手術経験、九州で最初の心臓移植手術に取り組む

 
 平成3年に九大に復職し、40歳過ぎた頃“福岡市立こども病院”に心臓血管外科医長として赴任し、小児への手術を経験したことで、九大に戻って手術対象の患者さんの年令の幅が拡大しましたね。実は子供と大人両方手術することは案外稀なことです。そして、九州で最初の心臓移植手術に参加。若かりし頃の塩瀬明現九州大学循環器外科教授も参加していました。
 また50歳の時に私自身に脊髄に腫瘍が見つかり、誕生日にせき損センターで手術し、右脚がマヒ。2カ月の入院生活でのリハビリと妻の献身的な支えで杖なしで歩けるようになった頃、当時の富永隆治教授から早く戻って来いと(笑)。助教授として脚が不自由でも手術は待ってくれないと頑張りました。

富永隆治教授の愛ある叱咤激励で横浜市立大学大学院第一外科教授に就任

 
 復帰後2ヶ月で富永先生から、横浜市立大学大学院の第一外科教授にノミネートされたのでプレゼンテーションして来いと言われ(笑)、脚が不自由だから無理ですと抵抗しましたが、あに図らんや採用されてしまいました。当時の第一外科は衰退していて総合外科なのに大学病院は総勢13名、心臓外科医はわずか4名でした。平成30年医学部長となるまで大学分院の附属市民総合医療センターの兼任もしていましたが、おかげで教室員は100人から200人に倍増、関連病院も“国立がんセンター”はじめ29に増やすことができました。

令和3年福岡和白病院院長就任、コロナ禍にエクモをフル活用、ダヴィンチで高度なロボット手術

 
 医師1年目に下関カマチ病院で夜の当直をさせてもらっていたご縁で、浦池真澄先生の御推薦をいただき、令和3年4月に福岡和白病院院長に就任しました。「手には技術、頭には知識、患者様には愛を」という理念のもと、24時間365日、患者様を断らない病院としての矜持。院長になって特にコロナ禍、福岡大学病院と同様“エクモ”を活用し重症患者に対応できる重点病院として名乗り出ました。
 また地域がん診療連携拠点病院にもなり、さらに令和3年11月に“ダヴィンチ”を導入し、ロボット手術のクオリティアップを図っています。循環器や脳梗塞などの救急救命機能だけでなくガンもしっかり診れるブランド病院を目指し、さらなる医療ネットワークの充実を確かなものにしたいですね。

◆社会医療法人財団 池友会 福岡和白病院

住  所/福岡市東区和白丘2-2-75
T E L/092-608-0001(代表) 
院  長/益田 宗孝
診療内容/内科、神経内科、呼吸器内科、消化器内科・糖尿病内科、循環器内科、腎臓内科、膠原病内科、血液内科、脳神経内科、総合診療科、外科、消化器外科、呼吸器外科、整形外科、形成外科、関節症科、脊髄脊椎外科、脳神経外科、心臓血管外科・血管外科、乳腺外科、産婦人科、泌尿器科(人工透析)、皮膚科、眼科、放射線科、麻酔科、リハビリテーション科、病理診断科、精神科、救急科、小児科
受付時間/月〜金曜日 8:00~12:00、12:00〜17:00 土曜日  8:00~12:00
診療時間/9:00~12:00、14:00~17:00
     ※診療科によって受付時間・診察時間が異なります。
休 診 日 /日曜日・祝日
H  P / https://www.f-wajirohp.jp

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