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OffTime6月号 インタビュー 産業医科大学病院 病院長 田中 文啓

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人間愛に徹したスタッフによる
患者様第一の高質医療を

いつも青春の志を忘れず
変化を恐れない柔軟な姿勢で
大きな信頼を得る病院経営を

  座右の銘は“青春は心の若さである(松下幸之助)”との田中病院長は、幼い頃に抱いた“眼の不自由な人に人口の目を”という夢をモチベーションに、医師になっても“変わることはある種のリスクを伴うが、変わらないことは最大のリスクである”という信念のもと、産業医科大学病院病院長として、スタッフそれぞれ自分や自分の家族が病気になった時、当然のように診療を受けたいそんな病院を目指すと語る。ひいてはそれが来院される患者の心に大きな信頼を宿すことになるからだと重ねて語った。

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つねに柔軟な姿勢で病院経営をと穏やかに語る田中病院長

父上の急逝、母上の実家で少年期、鹿のたむろする奇天烈な教師たちの東大寺学園でサッカー三昧の日々

 父が「早川電機工業(現シャープ)」に勤めていた工学系の技術者だったことで、大阪で生まれました。当時1960年代、父はニューヨークへ社外留学で“ベル研究所”で先進技術習得のため、一緒に渡米はリスクがあると、胎内の私と母を残して単身赴任。ところが赴任先で病気になり急遽帰国し、私が生まれてすぐ“再生不良性貧血”で亡くなってしまいました。どうやら現在は使われてはいませんが“クロラムフェニコール”による薬害のようですね。
 そんな訳で、私が2歳の頃、母方の実家である奈良に移り住み、名柄小学校、中高一貫の東大寺学園に進みました。当時、東大寺学園は近在の子どもたちを集めた寺子屋の雰囲気があり、TVの全国高校生クイズ大会でチャンピオンになったりして、最近は有名になりましたね。学校が世界遺産の東大寺の境内にあり、鹿が侵入してきたり、観光客がいる中を横切って生徒が裸でプールに行ったり(笑)。体育もマラソンも境内の中、サッカーグラウンドもあり、ボールを間違って小鹿の群れに蹴り入れると親鹿に追いかけられたり、蹴り返されたりしました(笑)。
 校風は自由で、ほとんど出欠もとらず、校則もなく、文化祭も修学旅行の内容も生徒の自主性を尊重してくれました。教師もユニークで、国語の先生は小説家で自作を授業のテキストにしたり、京都大学を出たばかりの物理の先生は大学院クラスの問題を趣味感覚で提示するなど難解で、100点満点で平均点が10点(笑)。書道はプロの書道家だったりと奇天烈な輩ばかりで、いわゆる受験勉強は指導してくれなかったですね(笑)。

カトリック系保育園の頃芽生えた夢が医学部受験のモチベーション

 
 母は茶道と華道を教えることで生計を立て、祖父母から甘やかされるのは駄目だと、私は2歳からカトリックの保育園に通い、うろ覚えですが園長先生の身長は100cm位しかなく、いつも松葉杖と補聴器が必要のようでした。それなのに身体の不自由な人や事情を抱えた人たちに希望の光を与えるべく懸命にケアする姿は神々しいものがありました。園児だった私は身体の不自由な人たちの中でも特に目の不自由な人が気になり、人工の目を作って役に立ちたいとずっと思っていました。
 現在ではiPS細胞を使うなど現実になっていますが、当時は夢のまた夢。中学高校進む中で、その夢がモチベーションで医学部を受験し、面接でもそのことを話して合格することが出来ました。

京都大学医学部入学、サッカー部の縁で京都大学胸部疾患研究所に入局

 
 京都大学医学部に入りましたが、当時はiPS細胞などというものは無く、幼い頃からの夢、人工の眼を作ることは諦めました。
大学6年間、サッカー浸りの私でした。特筆すべきは、同級生が理研に入社し、iPS細胞を使った基礎研究の上人工網膜を作り、実際に移植手術を行ったのも眼科に進んだ同級生で、私の夢をかなえてくれた2人は私の誇りですね。
 卒業して進んだ医局は、サッカー部の先輩が多かった京都大学胸部疾患研究所で、人見滋樹教授や和田洋巳講師(後に教授)に師事しお世話になりました。その教室の理念がより良い医療の開発、つまり自分自身もしくは自分の家族が診療治療を受けても納得できるかどうかが大事。されては厭なことはしないというカトリックの精神、技術云々よりもその理念に感銘を受けましたね。

所属していた胸部疾患研究所が統合され、京都大学医学部付属病院呼吸器外科に勤務

 
 かつては結核患者が多く、京都大学には通常の医学部とは別に専門の胸部疾患研究所があり、平成10年に、ある種の悲哀を伴って吸収合併、統合されて京都大学医学部付属病院呼吸器外科に勤務することになりました。胸部疾患研究所は、その後再生医療研究所・iPS研究所になりました。
 結核という2文字にしがみつかず、以前のマーズとかサーズとか感染症のウイルスなどを研究していたら脚光を浴び、胸部疾患研究所は現存していたかもしれませんね。
 地元の京都には老舗の菓子屋がありますが、一見同じように見えても、その原材料や手法など常に自己改革をしていて現在まで存続している。つまり変わらないことは最大のリスクだということです。

米国テキサス州ヒューストンに留学、同時多発テロ9・11、2ヶ月後、学会で惨状を目撃

 
 平成13年に米国テキサス州ヒューストンのMD.Anderson Cancer Centerに留学したのですが、そこで感じたことは観念として日本人はイコール、米国人はフェアと言う事。手術など優れた能力を持っていても基本的に報酬は平等なのが日本人の現実で、米国人は役割が判然とし効率の良い分業制で、際立って能力の高い人材には最大報酬を与えている現実があります。
 話は変わりますが、日本時間だと夜の10時頃、こちらで朝の8時に出勤すると、あの9・11同時多発テロの報道を目にし、このテキサスでも空襲警報が鳴り続け、急遽職場から帰宅を促されました。その2か月後には学会でニューヨークに行き惨状を目にし、強烈にショックを受けました。

兵庫医科大学呼吸器外科准教授の頃、アスベスト“クボタショック”に遭遇

 
 京都大学医学部大学院に戻り、退職して平成17年10月に兵庫医科大学呼吸器外科准教授として勤務をはじめた頃、JR尼ヶ崎の“クボタ”の社員や周辺の住民にアスベストによる“中皮腫”の発症が判明、つまり公害、労働災害ですね。
 欧米では1970年代から使用制限されはじめていたのに、日本では造船、自動車など主要産業に使われていたため2000年代後半まで禁止されなかった。このため大きな社会問題になった“クボタショック”は現在でも続いています。こんな病気があるのかと、当時大勢の患者さんの悲惨さには、集中治療に当たりながら心を痛めました。

スタッフ同士風通しの良い病院は患者さんから大きな信頼を得る

 
 職種、職位、部内の垣根なく、例えば現場の掃除スタッフがこうすればもっと良くなるのにとか、看護師が医師に気が付いたことをフランクに言えるとか、風通しを良くして、安全で適切な医療を提供できる病院にしたいと思っています。つまり職場の空気を変えることにより、自分や自分の家族が病気になった時にも当然のように診療を受けられる病院でありたいと思っています。それが患者さんへの大きな信頼に繋がることになるからです。

◆産業医科大学病院

住  所/ 北九州市八幡西区医生ヶ丘1番1号
T E L/093-603-1611
病 院 長 / 田中 文啓
診療内容/内科、神経・精神科、小児科、外科、皮膚科、泌尿器科、
     眼科、耳鼻咽喉科・頭頸部外科、産婦人科 他
受付時間/初診 8:30~11:00 13:00~14:30 (形成外科、一部専門外来)再診 8:30~11:00 13:00~14:30
休 診 日 /土・日祝日、年末・年始 (12月29日~1月3日) 開学記念日:4月28日
H  P / https://www.uoeh-u.ac.jp/hospital.html

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