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OffTime7月号 特集

地上の楽園、パラオを旅する

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日本から、3000キロ南。
ダイバーの聖地として
知られる地上の楽園「パラオ諸島」は、
かつて日本の統治下にあった。
「ベントー」や「アイコデショ」など
今も人々に使われる日本語が、
それらを物語っている。
壮大な大海原を満喫したら、
過去に思いを馳せながら
遺跡などの文化が残る街を歩いてみよう。

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こんにちは、パラオ。

 イエローの満月とブルーの海がデザインされた、パラオの国旗。白いバックに赤い丸を描いた日本の日の丸と似ていますね。
 火山とサンゴの隆起により生まれたパラオ共和国は、日本から約3000キロメートルの位置にある人口約2万人の国です。 2006年10月には、首都がコロール州からバベルダオブ島のマルキョク州に変わりました。南北約640キロメートルのエリアにはおよそ200以上の島々があり、人々が住んでいる島はうち9つで、残りは全て無人島というのですから、手つかずの自然がしっかりと息づいているわけです。
 パラオは、1500年代にスペイン人がやってきて以来、アメリカや日本などを始めとする様々な国から統治を受けてきましたが、人々は持ち前のスピリットで、前を向き生き続けてきました。パラオには、今もその名残によって様々な文化が混在している状況です。現在はアメリカの影響が強いですが、昔ながらのパラオ独特の歴史文化、宗教、風習も健在です。
 委任統治時代、日本はパラオで学校や病院、道路などインフラ整備を実に重点的に行ないました。日本人はパラオに米食や農業を定着させ、野菜やサトウキビ、パイナップルなどの生産をパラオ市民に促し、缶詰やカツオ節などの工場を積極的に築き、雇用を創出しました。道路を美しく整備して、離れた島々を結ぶ橋をかけ、電気を通したのです。
 またペリリュー島では、大東亜戦争末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されたといいます。ペリリュー島で暮らす現住民たちは、自国の復興を親身になって応援してくれた日本という国を深く尊敬しているので、今でもパラオには日本語が多く残っています。たとえば、「お弁当」は「ベントー」、「じゃんけんぽん」は「アイコデショ」、「おいしい」は「アジダイジョウブ」という具合に。何だか急に親しみを感じます。
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パラオ・ダイビング事情

ウミガメなど希少な海の生物と対面できるパラオは、低気圧や台風の影響も受けにくい上、近年では乾期と雨期の差が少なくなっているそうで、ダイビングには最高のコンディションが一年じゅう続きます。
 新たにダイビングを始めた人の多くが、いつかパラオの海に潜るのが夢と語るように、200もの島々に広がる海は、透明度が高い上に、決して期待を裏切らない絶好のダイビングポイントが実に多彩にあり、メンバーや力量に合わせたコース選びが実現できるのです。水温は、28~30℃が通常ですが、乾季には冷たい潮が流れこみ、少々冷たくなります。またパラオのペリリュー島にあるオレンジビーチは、ダイビングスポットとしても有名な場所ですが、かつて戦争で流れた血によって海が赤く染まって見えたことからそのような名前がついたとか。かつてパラオで起きた歴史の1ページに思いを馳せました。
 海底ふかく潜ることができる「ビッグ・ドロップオフ」には人気のスポットも多く、神秘的な世界が堪能できます。またダイバーの間でもリピーターが多い「ブルーコーナー」は、バラクーダの大群やそれらの小さな魚の群れを追うサメさんにも会えるかもしれない夢のようなダイビングコース。着底して魚をみるポイントにおいては、海底のサンゴを傷つけないように配慮をしてくださいね。ちなみに世界大戦の名残でもあるゼロ戦が海に沈んでそのままになったスポットも健在。こうして自由に動ける今、かつて戦火で命を落とした多くの人々のことを思うと、やはり胸がいたみます。
 長い歴史の中で様々なことがあって、それでも今を元気に明るく生きるパラオの人々に敬意を込めて、いつか楽園の旅に出てみませんか。

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パラオ共和国
Republic of Palau

面積:488平方キロメートル
人口:約2万人
首都:マルキョク
民族:ミクロネシア系
言語:パラオ語、英語
宗教:キリスト教
通過:米ドル
時差:なし。

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