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OffTime 6月号 編集後記

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編集長/黒木 正和

 インドに二千以上あるカーストの正統派バラモンに属していたため、シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは教育の機会を与えられ、15歳の時に出会ったカーの『純粋数学要覧』に没頭し、16歳でクンバコナムに入るが、数学以外への無関心から落第点をとり続け、一年で退学になり、新しい公式を発見する度に書き留めていた「ノートブック」により、南インドの都マドラスのパチャイアパズ大学に入学を果たした。しかし、数学では満点を取ったものの、この年も翌年もFA試験に落第した。19歳のラマヌジャンは深い失望の中で実家に戻り、徒らにノートブックだけが膨らむまま22歳になり、そのノートブックを見たマドラスの大物官僚がパトロンになり、一九一一年「ベルヌイ数の諸性質」と題する処女論文をインド数学会誌に発表。天才の噂も飛びかいはじめ、ラマヌジャンの周囲の人々は、研究の一端を宗王国イギリスの専門家に送るよう勧め、まずロンドン大学のヒル教授に数十個の公式を送るが、激励するだけの婉曲な拒絶で、次にケンブリッジ大学のベイカー教授、ホブソン教授は、手紙をそのまま送り返したと言う。
 最初の奇蹟が起きたのは、一九一四年、四番目の手紙の送り先であるハーディ教授からの招聘だった。無神論者であり、数式試験の変革者であった彼は、同僚のリトルウッドと共に、ラマヌジャンをニュートンの林檎の木の茂るトリニティ・カレッジで、第一次世界大戦の前後5年間にわたり、数式研究に没頭できる環境に置いた。人種への偏見や差別は当然あったが、ラマヌジャンは閃きによる独創的な定理を頻発し、「証明」の概念と必要性を説き続けたハーディ教授の強力な推薦とラマヌジャン自身の功績により、第2の奇蹟、難関の「英国王立協会会員の(FRS)」と正式に「トリニティ・カレッジのフェロー」という名誉を得る。どちらも高卒としては前代未聞のことであった。一九一九年三月帰国し、翌年32歳の若さでこの世を去るが、一九七六年に、ラマヌジャン最期の研究ノートが発見され、ベートーベンの第十交響曲と同じく桁外れの宝物と称し、現代でも彼の公式は解明の途にあり、ブラックホールの研究にも役立っている。
 映画、「奇蹟がくれた数式」、藤原正彦著「天才の栄光と挫折(数学者列伝)」より。

●Off Time発行元

ドリームシェア株式会社
株式会社コマーシャルアーツ

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