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OffTime1月号 インタビュー 国家公務員共済組合連合会 浜の町病院 病院長 一宮 仁

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真心の診察診療そして
高い水準の先進医療を追求

巡りあった数多くの恩人に感謝して
笑顔あふれる病院環境づくりに邁進

 
患者さんはじめ地域の人々から慕われていた医者である父の姿に尊敬と憧れを抱いていた一宮仁少年は、やがて父と同じ道へ。九州大学医学部に進み、第一外科に入局。駆け出しのころに指導教官だった古賀明俊先生、池田靖洋先生、アルバイト先の木村病院木村豊院長に、医師としてあるいは外科医としての姿勢を学び、田中雅夫前教授の推薦と当時浜の町病院の中垣充先生の招聘で浜の町病院消化器外科医長として着任。
 安井久喬前院長にトップマネージメントを学び、院長に就任して6年目。感謝すべき恩人は数限りないと穏やかに一宮院長は語った。

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基幹病院としてさらなる高みを目指すと語る一宮病院長

長嶋選手に憧れた野球少年は医師である父と共に延岡から福岡へ業

 
生まれは大分県の別府です。私の父は現在の韓国ソウルにあった京城帝国大学を卒業して、終戦後に九大温研(九大別府病院)に入り、私が3歳の頃、延岡の旭化成の病院に医師として勤務しました。其処で私は、港小学校、東海中学校(水泳のメダリスト松田大志選手を輩出)に通い、父の福岡への転勤をきっかけに警固中学校に転校しました。父は福岡でしばらく勤務医をし、私が高校生の頃、別府橋で開業しました。
 小学生の頃、当時も宮崎でキャンプをしていた巨人軍、特に長嶋選手に憧れ少年野球をしていたので中学では、野球をしたかったのですが、軟式テニス部に入部。警固中学に転向後はテニス部もやめましたが、延岡という窮屈な土地から解放された自由な気分が嬉しく、同時に、学校で教わる音楽よりももっと愉しいポップスに目覚めました。

修猷館時代はビートルズなど音楽鑑賞三昧、父の影響で九州大学医学部受験

 
高校は修猷館高校に進学しました。高校時代は部活はせず、映画やサイクリングを愉しみ、当時は熱狂的なビートルズ旋風の中、とりわけジョージ・ハリスンが好きで夢中で聴きまくりましたね。自宅学習もラジオをかけっぱなしの時代。他の洋楽もフォークもJ-POPも盛んに聴き、友達と独自のベスト10などランク付けをしてました(笑)。
 さぁいよいよ受験というとき、図面が好きでチラッと建築の2文字が頭を掠めましたが、地域の人々や患者さんから慕われていた父の姿が記憶の根底にあり、九州大学医学部を受験先に決めました。

学園紛争真っ只中、雀荘が教室がわり、教養部では同級生の2割以上が留年

 
九州大学医学部に入り、教養部時代は相変わらず野球熱は冷めていなかったけれど何故か硬式テニス部に入部。あまりの練習の厳しさと諸々の誘惑に負けて退部勧告(笑)。
 当時はまだ学園紛争が続いており、教養部時代の2年間はストばかりで、授業はほとんどありませんでした。あったかもしれませんが、あまり授業を受けた記憶がありません(笑)。授業が始まるや否や、ヘルメット姿の闘士達が教室に押しかけてきて授業妨害。授業がなくなった僕らは自然の流れで雀荘へ(笑)。するとそこにも先輩達が押しかけてきてヘルメットを脱いで麻雀に夢中(笑)。何だったんでしょうね。
 楽器をいじったり、曲を書いたり友人とバンドの真似事をしたり、もちろんあの“照和”にも入り浸り、デビュー前のチューリップ、甲斐バンド、海援隊などのライブを楽しみました。
 2年目になると授業日数が少なく進級試験も覚束ない状況になったので、スト解除に備えてクラスメートと大学正門前の雀荘で待機していました(笑)。
 結局、私達の医学部進級は2か月遅れ、同級生の2割以上が教養部で留年しました。
 医学部進級後は医学部硬式テニス部に入部、先輩達は「西医体」で優勝しましたが、僕らの時代は凋落の一途でした(涙)。

九大第一外科で念願の野球部活動、恩師に恵まれた充実の研修医時代

 
進路はもとより外科ありき。さらに野球がしたくて第一外科に入局(笑)。小学生の頃の少年野球経験のスキルで第一外科野球部に入部し、指導医でもあった今は亡き古賀明俊先生にピッチングなどを指導していただき、4外科対抗野球(九州大学・久留米大学・鹿児島大学・福岡大学)の試合ではマウンドに立ちました。後は専らショートを守りました。
 研修医の1年目は外科、2年目は麻酔科、3年目は国立小倉病院(現小倉医療センター)、4年目は中津国立病院(現中津市民病院)、そして九大に戻り、研究に没頭します。国立小倉病院ではテニスで全日本プレイヤーだった池田靖洋先生にみっちりと外科臨床の指導を受けました。
 中津国立病院では外科医が3人しか居らず、まさにフル回転。手術などは医局の先輩がたに適切なアドバイスをいただき、経験の乏しい私達でも無事に何とか勤務できました。外科医として貴重なトレーニング期間でした。

留学先のスウェーデンで“腹腔鏡”を知る、九大第一外科で“腹腔鏡手術”に取り組む

 
九大第一外科に戻り、極めて実直で厳格な中山文夫教授の研究室で、研究と野球とテニスの輝かしい充実の日々の中、ある時その中山教授に背中をおされ、1987年から1989年まで2年間スウェーデンに留学しました。九大の研究室にノーベル賞受賞者である島津製作所の田中耕一氏も関わった質量分析計の1号機が導入され、胆汁酸がらみの分析をしていて、スウェーデンがその研究のメッカだったからです。
 ノーベル賞受賞者でもあるベンクト・サミュエルソン氏が所長をしていた「カロリンスカ研究所」、所長の兄弟子のヤン・ショバール教授の研究室に行きました。「カロリンスカ研究所」はノーベル生理学・医学賞を選考する研究所で、私がいた時に利根川進さんが受賞されました。
 実験の合間に研究所の図書館で読んだ外科臨床雑誌に、当時日本ではまだ行われていなかった「腹腔鏡下胆嚢摘出術」が掲載されていて驚愕しました。
 ほどなくして九大に戻った時、日本でも「腹腔鏡下胆嚢摘出術」が注目され始めていた時期で、田中雅夫先生(前教授)に誘われて「腹腔鏡手術」に取り組みました。開腹手術のみにこだわっていたら現在の私は無かったでしょうね。田中雅夫先生には大感謝ですね。その田中先生の勧めと中垣充先生の“思う存分やりなさい”といった励ましの招聘で、平成6年「浜の町病院」に消化器外科医長として着任し、平成26年院長に就任しました。新病院に移転して半年後です。

平成26年浜の町病院院長就任、患者さんとスタッフみんな笑顔あふれる環境づくりを

 
これまで、本当にたくさんの患者さんと関わることができ、数多くの手術の機会を戴き、外科医冥利に尽きる生活をしてきました。共にチーム医療に携わってきた多くの仲間、病院スタッフに感謝しています。
 現在、医療の分野は大きな転換期を迎えています。地域の患者さんに満足度の高い適切な医療を提供する理念は変わりませんが、それを支える医師や医療スタッフが僕らの世代と同じく、働きがいのある、笑顔があふれる環境を作ることが大切です。
 何より、福岡市の基幹病院、地域医療支援病院として、ソフト面、ハード面共、さらなる高みを目指したいですね。そのためにも私自身、病院長としてしっかり元気でいなければなりません。医者の不養生は駄目ですね(笑)。

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温和な笑顔の一宮病院長

◆取材協力 国家公務員共済組合連合会 浜の町病院

住  所/ 福岡市中央区長浜3丁目3番1号
T E L/092-721-0831
病 院 長/一宮 仁
診療内容/内科系・外科系・その他の診療科
診療時間/平日  8:30〜11:〜00
休 診 日/土・日曜、祭日、年末年始(12月29日〜1月3日)
     ※但し救急の患者さんは救急外来にて診療いたします。
H  P / https://www.hamanomachi.jp

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