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OffTime11月号 インタビュー 医療法人 博仁会 福岡 リハビリテーション病院 院長 入江 暢幸

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トップクラスのリハビリ実績で
患者様に生活の質のさらなる向上を

数多の恩師への感謝を胸に
院長としての責務に邁進

  転校が多かった少年はその地で精いっぱいの生活を楽しみ、仙台の名門高校から長崎大学医学部に進み、バンカラ学生でありながらも優秀な脳神経外科医になった。徳永能治医局長、何よりスパルタ指導の柴田尚武教授、浜松医療センターの田中敬正部長の厳しさは凄まじく、それ故身に染みて今は感謝、さらに福岡リハビリテーション病院原道也理事長に背中を押され院長就任。今後は業界屈指のリハビリテーション病院として高みを目指すと入江院長。

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スタッフすべてがキーパーソンの高質のチーム医療を目指すと語る入江院長

小学生時代は飯塚、小倉、仙台と転校、校内暴力全盛の中学から仙台の名門校へ

  父が清水建設に勤めているサラリーマンで転勤先の東京で私は生まれました。父も母も実家が飯塚だったこともあり、父の福岡転勤で、飯塚の高田小学校に入学。稲刈りの後の田圃で草野球をしたり、凧揚げをしたり、近所の川で潜ったりと低学年の頃は愉しかった(笑)。
 5年生の時に父の転勤で北九州市小倉北区の霧ケ丘小学校に転校し、わずか一学期で宮城県仙台の八幡小学校に転校、ここ仙台には高校卒業するまで居住(笑)。川原がだだっ広い広瀬川で自転車を乗り回したり、冬は凍った川面でズックで辷ったり、近くに後に羽生結弦や荒川静香も練習したことで有名なスケートリンクがあり、そこではスケート靴で(笑)。
 小学高学年の時にバスケットボール部に入り、器用にこなしてたことから、仙台第一中学校でもバスケットボール部に入部。身長が中3でも140㎝、骨細の華奢な身体でシュートも思うように出来ず中2で退部しました。
 さてこれから“仙台第2高等学校”目指して勉強をということですが、当時は校内暴力全盛時代、1学年11クラス約500名、全校生徒約1000名の、酒を飲んだり、廊下を自転車で走り回ったりの荒れた学校生活の中でも成績は何とか中の中クラス(笑)。ある日タバコスパスパのアウトロー的担任教師から“お前はちゃんとやればもっと成績が上がる筈だ、出来る生徒なのだ”と言われ、2学期の期末試験を頑張った結果、いつも学年で40~50番が7番に、それから学年で1ケタをキープし、3年生の最後の試験で1番を取り、天下を取った気分(笑)。

高校は合気道の演武で活躍、パチンコ三昧のバンカラ学生時代

 
 後日聞いたのですが、入学時点で4番目の得点で入学したことが判り自画自賛(笑)。部活は自身の体力を考え“合気道部”当時あの由美かおるも有段者で(笑)、力技ではなく気の流れで相手を倒す護身術で、高校3年間続けました。
 私は受け身が得意で、年に1度の文化祭での演武では、東北大学の合気道部部長の前でクルッと回転してパァーンと乾いた音を響かせる受け身を披露し、晴れやかな気持ちになったことを覚えていますね。演武会の後は毎年必ず国分町のお好み焼き屋で打ち上げ、しこたま飲みましたね(笑)。
 この時期外せないのはめくるめくパチンコの世界、ハネモノのビッグシューターなど高校2年生から大学2、3年生までドップリと(笑)。当然学業はおろそかになり成績は下がる一方でした。それでも大学受験を考える際、身近に清水建設の勤め人である父親を見て、他の分野でやりがいのある仕事をと思い医学部受験を決めました。
 それにしては、中島みゆきの“オールナイトニッポン”午前3時からの第2部も聴いていたり、授業中は机の下で芥川龍之介や太宰治などの小説を読み漁っていました。わが高校が現役に執着し無い校風なので助かりましたね(笑)。

平成元年長崎大学医学部入学、全学テニスサークルで青春謳歌

 
 高校卒業タイミングで父親が福岡転勤になり、何とか“長崎大学医学部”に平成元年に入学することが出来ました。留年して7年間在学しましたが、大学生の本分は“遊ぶ”ことだと、当初2年間は活水女子大の生徒目当てに全学テニスサークルに入ったり、合コンは実にマメに参加、ドライブ、長崎の海にはよく潜りに行っていました。まさに青春を謳歌(笑)。
 2年生から3年生に進級する時期に虫垂炎で手術入院で留年。この留年経験は卒業した後もしばらくコンプレックスでしたね。

徳永医局長から誘われて脳神経外科へ、柴田教授にスパルタで指導される

 
 3年生からは猛勉強し、外科医を希望し、6年生の冬、整形外科・形成外科・脳神経外科のいずれかで迷った際、脳神経外科の徳永能治医局長から熱心に誘われて入局しました。
 1年目には診療のイロハから一緒に食事をするなど一日中一緒に過ごす“オーベン”で、岩永充人先生、藤田英志先生には、公私共本当にお世話になりました。教授は柴田尚武先生で、昔気質の剣客の様に猛烈な指導者で厳しく鍛えられました。ちなみに娘さんは“南国少年パプア君”の漫画家・柴田アミさん(笑)。私も平成10年結婚しましたが、医局員の仲人はすべて柴田先生で、全員“仰げば尊し長崎の父”なのです(笑)。
 2年目は大学の人事で“浜松医療センター”へ行かされ、金土連続など週3-4は当直、毎朝の勉強会でプレゼンを要求され、沢山の手術など当時の脳神経外科田中敬正部長は前述の柴田先生さながら厳しく、着任したその日に“もし長崎に帰りたかったら新幹線代出してやるが、片道分だけだ”、つまり弱音を吐くのだったら2度と戻って来るなという事ですね。今思えば研修医として厳しくご指導頂いた2年間は有難く、感謝していますね。

平成13年、脳神経外科専門医資格取得、福岡記念病院で年間150回の執刀手術

 
 その後、公立みつぎ総合病院、北九州市立八幡病院で少しづつ経験を積みながら手術技能のレベルアップを図り、平成13年に長崎大学附属病院脳神経外科助手の時に専門医を取得したことで一人前。そこで同期の3人がそれぞれ、福岡、佐世保、大村の何れかの地に赴任せよということになり、幸いにも留年していた私は(笑)、福岡記念病院に着任できました。
 そこでは専ら8年間手術ばかり、年間150回程執刀医として頑張りました。ガンマナイフセンター長という立場でしたが、外来と手術と1年365日といって過言でないほど、上司の古市将司先生と共に現場を、文字通り八面六臂でしたね。

平成23年福岡リハビリテーション病院脳神経外科部長、平成26年福岡大学病院臨床准教授、平成27年福岡リハビリテーション病院副院長、平成30年福岡大学病院教授を歴任。

令和4年福岡リハビリテーション病院院長就任、スタッフ皆が主役意識で充実のチーム医療を

 
 令和4年4月1日に福岡リハビリテーション病院院長に就任しました。加速度化する超高齢化社会に対応すべく、病院それぞれ特性を活かした医療連携を大切にしたいと思います。
 当院ではさらなるリハビリテーションの質の向上、主治医を中心とした皆が主役意識のチーム医療が重要。看護師、理学療法士、作業療法士、ソーシャルワーカーすべてがキーパソンです。これからはリハビリテーションがますますクローズアップされる時代、責任重大です。

◆医療法人 博仁会 福岡 リハビリテーション病院

住  所/福岡市西区野方7丁目770番地
T E L/092-812-1555
院   長 / 入江 暢幸
診療内容/整形外科、脳神経外科、内科、糖尿病内科、消化器内科、循環器内科、呼吸器内科、脳神経内科、リハビリテーション科、リウマチ科、麻酔科、歯科
受付時間/9:00〜12:30、13:30〜17:30
土曜日9:00〜12:30 
休 診 日 /日曜日・祝日、土曜日午後
    ※救急の場合を除く
H  P / http://frh.or.jp

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