online pharmacy without script

OffTime5月号 インタビュー 林内科クリニック 院長 林 有紀

offtime201705title

Top Interview| On |

0U9A8122

移ろう季節を纏って
和の装いで観劇のひととき

医家11代目の父の遺伝子を引き継いで
文系海外志向の夢見る少女が医師に

 天神地区のど真ん中の林内科クリニック。久留米大学放射線科医局時代、恩師大竹久教授の薫陶を得て、さらにキャリアを重ねて、林有紀院長は「産業医」に力を入れるなど、煩雑な現代社会に生きる人々の「守護者」たるべく日々努力されている。世界中を駆け巡る仕事がしたいと夢見ていた少女が、11代目と続く医師としての父上に影響を受けたように、長女も医師に、長男は医大生へと、その〝医〟の遺伝子は滞ることがない。

131
やさしい笑顔の林院長

世界を旅する兼高かおるに憧れた少女時代

 生まれは久留米なのですが、父が勤務医だったので、小学校は福島県郡山、岡山、兵庫県芦屋と転校。父が勤務医をやめて門司で開業したので門司に移り、残りの小学校、中学校、高校は一貫して明治学園で学ぶことになります。元来人見知りせず、自然に仲良くなり、転校生にありがちなイジメもありませんでした。そもそも明治学園は文系の女子校で、その頃はTV番組「兼高かおるの世界の旅」に少なからず影響されて、当時得意だった英語を活かして海外を舞台に活躍できる職業に憧れる夢見る少女でしたね。

恩師大竹久教授の指導でさらなるスキルを

 内山家(私の旧姓)11代目の医師である父の背中を見て育ち、2歳上の姉が医学部に入ったこともあり、自分もその道に進まなければ将来共通の話題でおしゃべりができないと思い、文系の海外の夢を諦め、急遽理系の勉強に切り替えて、久留米大学医学部に入学することになります。6年後卒業して、同大放射線科に入局し、女性は男性の5倍働かないと医師として認めてもらえないといった雰囲気の中で頑張り、10年後、恩師である大竹久教授が退官するタイミングで、既に学位も放射線科専門医(当時2児の母であった私は、大竹久教授の叱咤激励で懸命に頑張った)も取得していた私は、医局の助けを借りずに新境地を求めて、いきなり福岡に出てきました。そこが当時天神大丸の上層にあった「西日本内科クリニック」。単純に〝天神〟が好きだったせいかもしれませんね。そこで8年間、副院長として勤務しました。

105

地域、企業の「かかりつけ医」として努力を

 私の一番のポリシーは、地域の方々の「かかりつけ医」になることです。私が出来ることは力いっぱい行いますが、幸いにも周辺に優秀で信頼できる病院が沢山あるので、患者さんの症状に応じて、適確な病院に繋いで行くのが私の役割だと思っています。現在、林内科クリニックとしては●外来診療●健康診断●産業医活動を3つの柱として運営していますが、特に産業医活動に力を入れています。50名以上の従業員を抱える9社と契約し、毎週水曜日の午後は順繰りに企業を訪ね、衛生委員会に参加し、職場を巡視し、健康診断後の面談をします。通常日は当院での診療が終わった午後6時以降、復職者面談や社会的問題にもなっている過重労働面談、メンタルヘルス面談を行っています。産業医は言わば社員と会社を繋ぐ「企業のかかりつけ医」ですね。これからもさらに頑張ります。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

【必須】

ページ上部へ戻る